川べりを歩く
僕は休みの日によく近所の川べりを歩く。そこには何気ない光景が広がっている。
何気ない光景とは一体、なんだろう? 昔、国語ができない友達の作文を見たら「僕は今日学校へ行った。学校は楽しかった。次の日も学校へ行った」といった、ステレオタイプな文章がずっと並んでいた。その友達に、『君はちゃんと物を見ていない』と言っても、全然意味がわからなかっただろう。
何気ない光景とは、例えば、川の表面で渦巻ができている事だ。草がそよいでいる事であり、人がランニングしていたり、魚が泳いでいたり、白鷺が餌を求めて歩いている事だ。
そうした事というのを僕らは「何気ない光景」「ありきたりの光景」と呼ぶ。しかし、虚心坦懐に川べりを歩くと、光景の美しさ、太陽光線の具合などにひどく感動する。だが、人は笑うだろう。そんな普通の光景を見て、何を感動しているのか、と。僕達はもっと楽しい事を知っている、と人は言うだろう。
人々が言う楽しい事とは何だろう? 金を払って、人間にサービスを受ける事だ。払えば払うだけ、楽しい思いができると彼らは信じている。もっぱらそうしたサービスは、人間の中の動物性に関係している。感覚や運動と関係している。魂とは関係していない。
僕が歩く川べりはそれ自体、無限の宇宙である。こういう言い方を人は「詩的な物言い」と言うだろう。しかし、そうではない。もしそうなら、植物学者が一生植物を観察して飽きないのは何故か、昆虫学者が一生昆虫を観察して飽きないのは何故か、その答えがわからなくなる。
川べりを歩くと、様々な生命が息づいているのが感じられる。人もまた走ったり、跳んだりしている。そこでは人は自然の一部である。だからホッとする。人はまだ、理性による牙を向けていない。自然と一種の調和に達している。川の上方に上っていくトンボと、同じ方向に走っていく子供は、同じものに突き動かされて運動している。そんな気がする。
川べりは季節に応じて、様々な姿を僕達に見せてくれる。太陽や空も、留まる事なく違った姿を僕達に見せてくれる。古代人はその背後に『生きた』神の姿を感じた事だろう。僕らの世界では、事物の背後には死物化した神しかいない。人はそれを「金銭」と呼んだりする。そこで僕らは知らず知らず窒息しかかっているが、飼いならされてしまっている為に、呼吸にも気づく事ができない。僕達は息ができない。
動物園の中にいる動物達は、餌と安全を担保されているが、それ故に醜い存在でもある。彼らの存在は、人々が「見る」為にある。何かの「為に」ある存在は道具化された存在だ。僕らも、人間達も、何かの為の道具になった。その為に餌を与えられ、飼いならされている。ここから脱出するのは難しい。
そんなわけで僕は、休みの日ぐらいは、魂を感じる為に川べりを散歩する。そこでは目的を失った生命達が調和的に生きている。神はそれ自体目的であり答えなのだろう。同じように、自然もそれ自体が目的であり、存在しているという事がそのまま答えなのだ。
あの太陽の向こうにどんな真理を発見しようが、太陽という現象それ自体が僕の目を貫いた一筋の光である、という事はいつまでも変わらない。僕は、そんな気がしていた。僕は古代人の息吹を感じながら、川べりを歩いた。しかし、それによって孤独が癒やされる事はなかった。もっとも、僕の魂は孤独の中でのみ、安らぐ事ができる。見給え、一匹の見事な白鷺が餌を追っている姿を。彼に孤独などない。彼はただ自然の一部として、己自身を生きているのだ。
最近youtubeをはじめました。
ボソボソ雑談しています。https://www.youtube.com/channel/UCKnK8ijuVuJ89iOaoxODo5A
youtubeと書き言葉 (エッセイ)の使い分けは試行錯誤中です。