002「家族ごっこ」
前門の虎、後門の狼。
完全に挟み撃ちの格好である。
「……ちっとやべぇな」
「とーちゃん……」
不安そうな声を出した匠の頭を優しく撫で、言った。
「……大丈夫だ。とーちゃんがついてる」
「うん……」
必死で頸にしがみついてくる我が子の頭を撫でながら、陸の脳は凄まじい速さで回転していた。
――あのチビデブ男の向こう側がゴールだ下がった所でどうにもならねえ仙術が使えりゃ“歪み”に入って向こう側に出るだけだが仙術を知らない匠の身体には耐えられねえとなれば無理矢理こじ開けて進むしかねえがあの“紙人形”を見るにどうやらアイツもそれなりの手練れらしいとなれば……
ああもう、めんどくせぇ。
――ぶん殴ってこじ開ける!
その時。
「――邪魔です、先輩」
陸の後ろから声を掛けてきたのは、清末だった。
――・――・――
「……で、ぶん殴ってこじ開けて帰ってきたの?」
そう言いながら陸に湯呑み茶碗をつい、と出したのは、匠の母代わりにして陸の弟子、忍である。
どちらかといえば長身で、細身だが女性らしい丸みを帯びたしなやかな筋肉が、彼女の所作を美しく見せている。後ろでまとめた長い黒髪が、彼女の動きに合わせて左右に揺れる。
街を歩けば十人中八人は振り返る、とは彼女を知る者たちの言葉である。
「それが良く分からねえんだ」
陸は、自分の膝の上でカレーライスを夢中でほおばる匠を撫でながら、忍の淹れた茶をすする。
その顔には何か釈然としない、困惑の表情がにじみ出ていた。
「どういうこと?」
「いや、その清末ってのがな……」
陸を追ってきたかに思えた清末だったが、彼の攻撃は新手の陰陽師に向かっていた。全く無警戒だった新手の集団は、完全に不意を突かれた格好になり、陣形が完全に崩れた。
陸はその隙をついて、まんまとその場からの脱出に成功した、ということである。
「陰陽師同士がやりあったってこと?」
「ああ、しかもかなり派手にやり合ってた。ただ、それでもご近所さんがヤジ馬に出て来なかった所を見ると、どうやら事前に結界を張っていたらしい。どうにも用意周到なことだ」
「そう……ま、匠が無事ならなんでもいいけど」
そう言って匠を見る忍の目は優しい。
今日の食事がカレーライスだと知った匠の喜びようは凄かった。
全力で忍に飛びつき、かがんだ忍の頬に自分の頬を擦り付ける。
そんな姿を見るに、先の戦いを忘れてしまうくらい、陸は満たされた。
「いっぱいたべたー!」
「全部食べたの、えらいねえ。たくみ、ご飯おわったらなんていうんだっけー?」
「あっ。おちとーたまったー!」
「はい、おそまつさま」
匠が、陸の膝の上で手を合わせる。その様子に、陸と忍から優しい笑みがこぼれた。
「おいちかった! とーちゃ、いっちょにおふろはいろー?」
「おう、ちょっとお腹落ち着いてからな」
「わかった!」
そう言って陸の膝から降り、匠はミニカーで遊び始める。
「さて、じゃあ風呂沸かしてくるか。悪いが忍、食器下げといてくれ。シンクに置いとけば洗うからよ」
「ああ、そっちはやっとくから、匠の相手してあげて? 泣かないで頑張ったんだから」
「かーちゃん!」
匠がニコニコしながら忍にくっついてきた。
「んー、どうしたの匠」
「たくちゃん、かーちゃんとおふろはいりたいなー」
「あら、とーちゃんじゃなくていいの?」
「あのねえ、みーんなではいりたいなー!」
「……へ?」
匠の眼が期待でキラキラと輝いている。
驚いた忍の表情は、みるみるうちに赤みを帯びてきた。
「み、みんな一緒に……?」
「うん! たくちゃんとー、とーちゃんとー、かーちゃん! ね、いいでちょ?」
「そ、それはどうかなぁ……」
いきなりの申し出にしどろもどろになる忍。
こういう時は大抵、助け舟が入ることになる。
「たくー、おうちのお風呂はちっちゃいから、みんなで入るのは無理だぞー」
「えー」
「今度みんなでどっか行った時な。今日はかーちゃんと入っておいで」
「し、師匠!?」
陸の言葉に忍は明らかに狼狽えていた。匠の前ではいつも“とーちゃん”と呼ぶのに、つい師匠と口走ったことにも気付いていない。
「もー、ちょーがないなー」
「……ま、お前が覚えてられたらな」
「たくちゃんおぼえてうもーん!」
――助かった。
いくら仙術の師弟で匠の親代りとはいえ、恋愛関係というものには至っていない。尊敬の念は常に持っているが、それは愛や恋という感情とは全く別のものだ。生活を共にすることは出来ても、その肌を晒すのはさすがにためらわれる。
忍はまだ成人したばかりで、まともな恋愛経験もない。相手が三歳児だとて、少なくとも嫌いではない相手を引き合いに出されれば、照れくさいものは照れくさい。
その辺り、勿論陸は理解している。いくら匠のためとはいえ、今の家族ごっこの様な関係に付き合わせてしまっていることを、申し訳ないとも思う。
忍本人の申し出でなければ、今の状況には至っていなかっただろう。
かといってまだ三歳の匠にそんな機微は分かるはずもない。
そこで陸は、問題を先延ばしにして、ほとぼりがさめるのを待つ作戦に出たのだった。
風呂の湯を貯めに立った陸は、火照った頬に手を当てて冷ましている忍の頭を、すれ違いざまにぽん、と軽く叩く。
不意の感触に陸の横顔を見た忍は、ちょっと驚いた顔をした後すぐに頬を緩ませ、からかうような口調で言った。
「耳、赤いっすよ」
「……いい女ってな、気付いても知らんぷりするもんだ」
「普段小娘扱いしてるくせに……」
要は陸も照れているのである。
ぶつぶつと文句を言う忍を置いて、風呂の栓をして湯を入れる。
はじめはちょろちょろと出てきた湯はやがてざんざんとした流れに変わる。
その様子をぼんやり眺めながら、陸は小さく苦笑した。
――ああいうところは桜そっくりだな。
彼女の初心な様子に、陸はかつて最も愛した女の姿を重ねていた。
ふいに忍の、陸を呼ぶ声が聞こえた。
「とーちゃん、誰かお客様みたい。お願いできるー?」
少し時間を置いたからか、忍はすっかり元の調子に戻っているようだった。
「おー、今行く。……呼び鈴気付かなかったな。それにしても、誰だこんな時間に」
ぶつぶつと呟きながら、陸が玄関の扉を開けると、そこには。
「こんばんは」
「! ……てめえ」
そこ立っていたのは、少し疲れた様子の、それでも薄い笑いを浮かべた清末だった。
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