第二話
目の前のコルクボードに手中のコピー用紙を貼り付けるべく、腕を伸ばした。
これで596件目。
佐藤くんに用意してもらった資料の全てに目を通したことになる。
「そのうち当たりが2件。残りは外れか…。」
眼鏡を外して、瞼の上から目をほぐす。随分長いこと活字とにらめっこしている気がした。
一件一件だけでも膨大な枚数なのに、それを600件近く処理するというのは、流石に骨が折れた。
首を回すとバキバキと鈍い音がする。
「少し休まれたらどうです。昨日からずっとその調子じゃないですか。」
心配の色が濃い声に、椅子を回して振り返る。
サングラスの下の瞳を細めた佐藤くんが、コーヒーカップ片手に立っていた。
「平気よ。昔から言うじゃない。『活字を見る雪乃は疲れを知らぬ』って。」
「聞いたことないですそんな格言。それが本当なら全国の雪乃さんに事務仕事回ってきちゃうでしょ。」
律儀にツッコミを入れる辺り、彼はなかなかの強者だ。
「佐藤くん、甘いもの食べたい。」
「そう言うと思って、中屋のミルクレープ買っておきました。」
カチャリと目の前に、ミルクレープの皿とココアを置かれる。わぉ。
「気が利くわねぇ」
「こんな時間にコンビニに走らされるの絶対嫌ですから。」
顔を逸らして憎まれ口を叩く佐藤くんは、本当によく出来た助手だと思う。
「どうですか、何か分かりましたか?」
「んー、未だなんとも言えないけど、そうね。」
サクリとフォークを入れると、一口大になったケーキを口に運ぶ。
「彼の記憶回路にアクセスしてみたんだけど。」
コルクボードに貼られた紙に目をやる。
「彼の記憶は確かに無くなっていたわ。」
ココアを口に含む。思ったより身体が冷えていたらしい。ジンワリとぬくもりが節々に渡る。
「でも妙なのよ。記憶ってものは昔のことから消える筈。」
コルクボードの紙の内、記憶のデータを指で挟む。
「彼の記憶は、起動した頃のものは消えていない。消えていたのは一部分。」
まるで、意図的にその部分だけを切り取ったような。
「それらしいのはあっさり見つかったんだけど厄介なの。」
ピシッともう一枚の紙を指で弾く。
それに目を通した佐藤くんが、ギョッとしてこっちを見た。
「まさかパス付きとはね。流石にこれ以上は無理に引き出せそうにないわ。」
修理しても直らなかった筈だ。だってデータは消えたわけではなかったのだから。
以上。と言ってフォークを置いた。
「5文字のパスワード…ですか。」
「ま、持久戦になるでしょうね。」
すると、何ごとか考え込んでいた佐藤くんが首を捻る。
「何よ?」
「これが記憶のデータなのだとしたら、何でこんな厄介なことになったんでしょうか?」
まったく、本当に賢い子だ。
「ハッキリ分かっていることは、このファイルにパスを設けられる人は現段階で考えられるのは三人。」
ココアを口に運ぶ。
ほぅと一息ついて、右手の親指を折る。
「まずは彼のマスター。」
「もう一人はアイツを修理したという技師ですね。」
佐藤くんの言葉に頷いて、人差し指を折る。
「あと一人は…?」
「彼自身よ。」
そして、おそらくこれが正解。
彼のマスターがファイルにパスをかけたとしたら、彼に欠陥などなかったと承知してるはず。
技師にしても、動機がない。何より『修理』ということは、既にパス規制がかかってたことになる。
「あのファイルを開けて、それが失った記憶データなら、彼は欠陥などないことになる。でもそれが違ったら、本当に欠陥持ちなのかもしれない。」
「答えはすべてこのファイルの中…ですか。」
頷くと、佐藤くんが口を開いた。
「これからどうするつもりですか?」
「とりあえず彼のリハビリからね。」
「リハビリ?」
あたしの言葉に、佐藤くんが怪訝そうにした。
「雪乃さんは、アイツがまるで人間みたいに物を言うんですね。」
「彼は人間よ。」
だからこそ、彼は記憶に鍵をかけた。
間髪入れず答えたことに佐藤くんは、驚いたように目を瞬かせた。
「彼を、もう一度人の下に置いて様子を見る。」
「マジですか?」
彼は信じられないという目をしていたが、やがて諦めたようにため息をついた。
「俺の後輩にそれとなく話しておきます。」
「悪いわね。」
「今更でしょう。赴くままどうぞ。」
俺はアンタを信じてついていくだけです。
そう言って佐藤くんはキッチンに消える。
優秀過ぎるのも考えものだなと、誤魔化すように温くなったココアを啜った。