第一話
システムを起動します
設定をインストールしています
意識が急速に蘇る。
薄暗い室内で、多くの機械が動作音を上げる空間。
自分が初めて産み出されたラボの空気に似ている。
「うんうん。ちゃんと起動したみたいね。」
隣から聞こえてきた声に視線をやる。
まず目に入ったのは柔らかな黒髪。
クリンとした黒真珠の瞳を縁取る同色の睫毛は、長く量が多い。
日光には無縁そうな、透けるように白い肌。
細い身体に白衣を纏う姿は少しアンバランスだ。
「だ、れ」
出した声が掠れた。どうやら長いこと眠っていたらしい。少し違和感を感じる。
思わず眉を寄せる自分の顔を見ると、女性はクスリと微笑み、ずれてもいない眼鏡を押し上げた。
「あたし?あたしは技術者の黒沢雪乃。」
雪乃は、カチャカチャと何かの機具を机にぶちまける様に置いた。
「大変だったわね。データを確認してみて驚いたわ。貴方、充電が切れてから三年間眠ってたのよ。」
コーヒーメイカーの音が、薫りに混じって室内に満ちる。
「聞かないんだ。」
「何を?」
「俺があそこにいた理由。」
「聞いたら答えるの?」
はい、とコーヒーを渡されて思わず顔をしかめた。
「俺は飲食は出来ない。」
「知ってるわ。だからあなたも知っておきなさい。黒沢雪乃の辞書に、不可能と限界と断念の文字はないわ。」
充電をしてる間にちょっとだけ弄らせてもらったから、と言ってのける雪乃に開いた口が塞がらない。
「どうぞ。」
薦められて、仕方なくコーヒーを啜った。
どうやら知らぬ間に飲食が可能になっていたらしい。出会って五分も経っていないが、めちゃくちゃな女だ。
「どう?」
「…変な感じがする。」
口の中に、ひどく不快感を感じて眉を寄せた。これが苦いというものなのだろうか。
「慣れれば飲めるようになるわ。」
そういうものなのだろうか。分からない。少なくとも自分には無理そうだ。
「こっちと代えましょうか。」
そう言った雪乃のカップの中には、薄茶に濁った液体が満ちている。カフェオレだ。
「別に、いい。」
何だか悔しくなったので、絶対に飲めるようになってやると心に誓う。
そんな俺の様子に、クスリと笑みを浮かべると、雪乃は、あらそう?と言って再びカップに口をつけた。
「で、どこが悪いの。」
「は…?」
いきなり言われてポカンと間抜けな顔を曝す。
慌てて顔を戻すがバッチリ拝まれたらしい。プッと噴き出した雪乃に眉を寄せる。
「貴方の顔を見ていれば、どこかに欠陥持ちなのは分かるわよ。」
微笑む雪乃がひどく大人びて見える。
「それを聞いて、どうするの。」
「直してあげるに決まってるでしょ。」
あっさり。
開いた口が塞がらない、本日二回目。
「……無理だ。何度修理しても、再発した。」
「あら、貴方あたしの言葉を聞いてなかったの?」
俯いてそう言った俺に、雪乃は髪をさらりと払って、フッと笑う。
「黒沢雪乃の辞書に、手加減と容赦と良識の文字はないわ。」
「めちゃくちゃ鬼畜じゃないですか。しかもさっきと微妙に変わってるし。」
胸を張って言う雪乃の頭頂を、いつの間にいたのか、長身の男がバインダーでビシッと小突いた。
だらしなく上のボタンを二つ程外し、腕捲りしたシャツとスラックスというラフな格好にくわえ煙草。
くすんだ茶髪は乱雑に伸び、左耳の下で無造作にくくられている。
実際はもっと若いだろうに、無精髭のせいで、いくらか老けて見えた。
サングラスの下の瞳が、達観した色をしている。
「あら佐藤くん。」
「あら、じゃありません。さりげなくコイツに構うふりしてサボらないでください。レポートの〆切明日までですから、急いで完成させてもらいます。」
ちなみに完成させてくださいなどという、甘っちょろい言い方ではなく、断定系なのがミソである。
「あたしを誰だと思ってるの。その気になればレポートなんぞ二時間あれば終わるわよ。」
「アンタこそ学会を何だと思ってんだ。」
「うるさい。とにかくほらほら、喧しい小姑が来たから、さっさとどこが悪いのか言っちゃいなさい。」
目を合わせられると、何故か逸らせなくなった。言葉と裏腹に、その表情がひどく真剣なものだったからかもしれない。
そう思うと、この女に任せてみてもいいような気がしてきた。
それはかなり頼りない直感だったけど。
今日一番掠れた、情けないくらい小さな声で呟く。
「記憶が…消えていくんだ…」