057
「おやすみ、ニース」
「おやすみ。――あとは頼んだよ、ルナール」
「はい。おやすみなさいまし」
パジャマに着替えたガッタは、エッチングの施されたガラスピッチャーからグラスに水を注いているニースに一言挨拶すると、恭しく一礼したルナールと一緒に階段を上り、二階のベッドルームへと移動した。
このビーアンドビーには、階段を上がった両サイドに大小二部屋のベッドルームがあり、左の広い方の部屋にはダブルベッド一台が、右の狭い方の部屋にはセミダブルベッドが一台置かれている。階段を上がった二人は、左の部屋に入った。
「さて。僕もシャワーを浴びるとしよう」
水を飲んだニースは、グラスを洗い桶の中へ入れ、ユニットバスへ行こうとした。
だが、一歩踏み出した途端に玄関ドアをコンコンとノックする音がしたので、つま先をエントランスへと向け直し、ノブを捻った。
「ただいま。あれ、姉ちゃんは?」
「二階へ上がったところだ。それより、その顔は、どうしたんだ?」
「へへっ。ちょいとバーに立ち寄ったら、喧嘩の巻き添えに遭ってさ。まぁ、中で話すから、ひとまず入れてくれ」
ニースは、片頬を赤くし、指で鼻をつまんで俯き加減になっているシュヴァルベに事件性を感じ、わずかに眉をひそめて怪訝な表情をしつつも、ドアを広く開けて中へ入れ、外に誰も居ないことを確かめてからノブを引き、オーナーに渡された鍵をポケットから出して施錠した。
そのあいだに、シュヴァルベはダイニングへ移動し、くたびれた様子でどっかりとソファーに座った。
「君は、ガッタより手が掛かるな。成人しているというのに、情けない」
「いやぁ、俺だって面目ないとは思ってるさ。でも、こういう生き方しか出来ないんだよ」
結局、ガッタを寝かしつけているルナールを降りて来させるのは如何なものかと考えたニースは、洗面器に濡らしたタオルを入れてダイニングへ持って行き、シュヴァルベの手当をするはめになった。
鼻腔内で決壊したキーゼルバッハは、歩いてくるあいだに自然と堰き止められたようで、シュヴァルベは鼻から指を離し、タオルを頬に当てている。そして、ニースは足形の付いたシュヴァルベのジャケットを脱がし、シャツを捲って背中に傷や痣が無いか確かめている。
「手際が良いけど、実は、医師の経験があったとか?」
「薬師の免許は取得しているが、医師として患者を診察する公的資格は持っていない」
「薬師でも凄いと思うぜ。やっぱ、頭良いんだなぁ」
「君も、少しは頭を使って生きてくれると、周囲に迷惑が及ばないのだけどね。背中に異常は無い」
「サンキュー。あぁ、これ、傷は残るかな?」
シュヴァルベは赤くなった頬からぬるくなったタオルを離し、洗面器の水で絞り直しながらニースに訊く。ニースはシュヴァルベの手からタオルを取り上げ、うまく絞れずにビタビタになっているタオルを絞り直してから渡しつつ、ついつい、いつもなら心にしまっておくような嫌味をもらす。
「いっそ心的外傷が残るくらいのことをされて、淑女に手を出さなくなってくれた方が、ルナールも助かりそうなものだが」
「ひっどいなぁ。違う意味で傷つくぜ」
「メンタルは、ともかく。明日には痛みが引いて、少しは見られた顔になるだろう」
「そんなに変な顔なのか?」
「百聞は一見に如かずだ。あとで鏡を見たまえ」
「はいはい」
ひと通り応急処置を終えたニースは、ソファーから立ち上がり、シャワーを浴びにユニットバスへと向かった。
「なんで、いつもイイトコで失敗しちゃうかなぁ、俺は……」
タオルで髪を拭きつつ、ニースがバスローブに着替えてダイニングへ戻ってくると、ソファーではシュヴァルベがぐてっと横になり、鼾をかいていた。
ニースは、カーペットに落ちた絞りタオルを拾って洗面器に入れ、着ていたジャケットを身体にかけ、ローテーブルに置いてあるランプを持ち、二階へと上がって行った。




