046
季節は移ろい、ガニュメデス邸が建つ寒冷な高台にも、ようやく春の陽気が降り注ぐようになった。
温室で、もうすぐ蕾がつきそうな薔薇を水やりがてら見て回り、葉や茎に異常が無いことを確かめたニースは、その様子を記録した。
そのあとニースは、いつもなら書斎に向かうところであるが、この日は、その足を応接間に向けた。その手元には、いつも温室に置いているノートを携えている。
ひと月前までコートを羽織っていたニースも、今では薄手のテーラージャケットを羽織るだけで、シャツの上に重ねていたセーターも脱いでいる。
だが、身軽になったのは洋服ばかりで、廊下を歩くニースの足取りは重たく、心なしか緊張しているように見える。
応接間のドアを開けたニースは、そこに先客が居ないことを確かめると、強張っていた表情をわずかに緩め、ローテーブルにノートを置きつつ、静かにソファーへと腰を下ろした。
「最後に対面したのは、何年前だっただろうか……」
口元に手を添え、瀟洒なシャンデリアがきらめく天井を見ながら、ニースは誰に言うでもなく呟いた。それから、視線を窓の外へと移し、しばし緑の草原を意味もなく眺めはじめた。
すると、そこへドアをノックする音がした。
「ニース様。お客様をお連れしました」
「通しなさい」
開いたドアの向こうからは、いつも通りにエプロン姿をしたルナールの他に、もう一人、口ひげを蓄えた年配の紳士が現れた。その紳士は、栗色の髪に褐色の肌という違いはあれど、ニースと同じように鋭角な耳を持っていることから、彼と同じエルフ属であることがうかがい知れる。
その紳士と握手を交わしたあと、ニースは、自分とはローテーブルを挟んで向かい側にあたるソファーへ座るよう促した。紳士が遠慮がちにソファーへと身体を沈めると、ルナールが言った。
「お茶をお持ちしますので」
「あぁ、頼んだ」
ルナールが席を外し、ドアの向こうの廊下へと姿を消すと、紳士は穏やかな笑みを浮かべながらニースに言う。
「もう、この屋敷の門をくぐることは無かろうと思っていましたよ、坊っちゃん」
「その呼び方を聞くのも久しぶりだよ、サーヴァ。君なら、そう言うに違いないと思っていたけどね」
「ホホッ。そういうところは、以前と変わっていませんな」
二人のあいだに張りつめていた見えない糸が解れ、和やかな雰囲気が形作られたところで、ニースはローテーブルに置いたノートを手に取り、本題を切り出しにかかった。




