003
ニースがキッチンへ辿り着くと、そこにはエプロンをした小柄でふくよかな婦人が、作業台の前で麺棒を片手に立っていた。作業台の上には打ち粉が敷かれ、ボウルには捏ね上げて丸くまとめられた生地がある。
「あら、ニース様。これから、ブレックファーストにパイを焼こうかと思ってたところなんですのよ」
「あぁ、そう。僕のことは気にしないで、どうぞ続けてくれ」
「そうは参りませんよ。何か御入り用なのでしょう? このルナールに、なんでも仰いまし」
ルナールと自称した婦人は、作業台の端に麺棒を置き、エプロンで手に付いた粉等を拭いながら、背後で尻尾をふりふりニースに近寄った。
ここで婦人について説明しておくと、彼女はエルフでもヒトでもなくウルフ属で、獣のような耳と尻尾を持っている。正確な年齢はシークレットだが、パッと見は四十歳前後である。髪は温かみのある橙のソバージュヘアーで、瞳は茶葉のように艶やかな緑である。
この屋敷では、家事に疎いニースに代わり、通いでハウスキーパーをしている。針仕事や読書では、胸ポケットにある金縁の丸眼鏡を掛けることが多い。
これは余談だが、顔が広く噂話が好きで、面影のよく似た軟派な弟がいる。
「それなら頼みたいのだが、何かしら速やかに身体が温まる料理を作ってくれ」
「はい、承知いたしました。では、ジンジャースープでも作りましょう」
「なるべく急いでくれ」
「慌てなくても、すぐに作れますよ。出来上がったお料理は、ダイニングへお持ちしましょうか?」
「いや、応接間の方へ持って来てくれ。あぁ、そうそう」
立ち去りかけたニースは、ドアノブに手を掛けたまま顔だけ振り返り、ルナールへ言い忘れていたことを告げた。
「食べるのは、僕じゃないんだ」
「あら? こんな朝早くに、どちら様かいらしたのですか? 全然、気が付きませんでしたわ。それとも、猫でも拾いましたか?」
「詳しくは、あとで応接室で話すよ。説明すると長くなるし、口で言っても齟齬が生じるから。実際に見た方が早い」
「はぁ……」
それだけ言うと、ニースは更なる疑問を口にしかけたルナールを放置したまま、足早に応接間へと駆け戻って行った。
その後ろ姿を見送ったルナールは、ふさふさの尻尾の先を疑問符のようにはてなと曲げつつ、踏み台を移動させて上に乗り、吊り戸棚を開けて片手鍋を用意しはじめた。