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グレンツェが抱えていたのは、箔押しされた題字が擦り切れるほどの古い書籍で、向かっていたのは文書庫だった。
ドアを開けると正面に窓があり、両サイドに作り付けの本棚が並んでいる。棚の高さは、梯子が無ければ、ニースでも最上段まで手が届かないであろうと思われるほどである。
棚と棚のあいだ、ちょうど部屋の中心には大きな楕円形のテーブルと数脚の丸イスがあり、書籍を広げて読めるようになっている
「さっきは、なんのほんをもってたの?」
「古代語に関する本です」
「コダイゴ? なんだか、かたそう」
「硬いというより、難いものですね。奥様から、ニース様は古代語に堪能だと伺ったので、先程まで、二三、簡単な質問していたのです」
「ふぅーん。それで、ニースは、どうだって?」
「それがですね、ニース様曰く『僕は、古代語はエルフ語しか知らないが、学者の中には、古代語が何種類あったかを調べたり、一つの古代語の文献を蒐集して分析したりしている者もいる。良ければ、初心者向けの語学入門書を送ろうか』と言われましたので、お言葉に甘えることにしました。入門書を読めば、少しでも古代語について理解を深められるかもしれません」
「そうすると、どうなるの? なにか、いいことでもある?」
「昔の人々が、どういう生活をしていたかや、何か大きな出来事があったかが分かってきます。それにより、今の生活に役立つ知恵が見つかったり、どうやって困難を乗り越えたら良いかという糸口が分かってきたりするのです。知識は蓄えておいても邪魔になりませんから、この機会に古代語を覚えておいて損は無いかと」
「へぇ~。よくわかんないけど、すごい!」
かつて、この世界は、属性の違いによって異なる独自の言語を操っていた。そのことが何を意味し、どういう歴史を辿ってきたか。太古のロマンに知識欲をくすぐられ、愉しそうに話して聞かせるグレンツェを、ガッタは純粋にカッコイイと感じた。
「でも、えがないほんは、たいくつしない?」
「挿し絵が無くとも、素敵な本はたくさんありますよ。むしろ、絵があると嫌な過去を思い出してしまいそうで……」
そう言いかけて、グレンツェが一瞬、誤って砂糖ではなく塩を入れてしまったココアを飲んだかのような顔をしたので、ガッタはグレンツェの震える手を両手で包み込み、労わるように声を掛けた。
「あのね、レンズ。いいたくなかったら、それでもいいよ。でも、かなしいときは、だれかにないていいの。だから、おしえてほしいな?」
「……分かりました。そこに座ってください。えーっと。これは、明るい話でも、楽しい話でもないのですが――」
ガッタが丸イスに座ると、グレンツェも隣にイスを寄せて座り、スラムで暮らしていた当時のことを、軒から垂れる雨粒のようにポツンポツンと吐露し始めた。
話の内容は、主に家庭環境によるものだった。父親は学校教育に馴染めなかったため、さいごまで読み書きや計算が出来なかったこと。周囲から大きな子供としてバカにされる父親を、子供ながらに不憫に感じていたこと。子育てが一段落すると、貧乏画家である父親に愛想が尽きた母親は、ボストンバッグに入るだけの私物を詰め込み、出て行ったまま帰ってこなかったこと。それから間もなく、父親は安い画材の有害物質で中毒を起こして亡くなったこと。ミオに拾われなければ、質屋が牛耳る窃盗団に入っていたかもしれないこと。空腹を満たすことで精いっぱいの生活が長かったせいで、料理の味を気にしたことが無かったこと。
そんなツライ過去を話したあと、グレンツェの瞳に自然と涙があふれてきたので、ガッタは静かに立ち上がり、垂れ下がったグレンツェの尻尾を踏まないように注意しつつ、背中から両腕で包み込むように抱きしめた。




