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翌朝は、昨夜のうちに降った雨が湿気をもたらし、山に囲まれた湖畔の盆地は、うっすらと霧掛かっている。ペンションの周囲に生えている草花も、朝露に濡れている。
「ルナール、たいへんだね。いっぱい、とかさなきゃいけない」
「もう慣れたわよ、毎朝のことだもの。嫌になったからって、耳や尻尾を付け替えたり外したりできないでしょう?」
「フフッ、そうだね」
ベッドの縁に、ガッタとルナールが横並びに座っている。ガッタは、ルナールの尻尾の獣毛を、ヘッドの大きなブラシで梳かしている。だが、ガッタの手が小さいせいか、それとも湿気で毛先が広がってしまっているせいか、すんなりとは流れて行かない。
ルナールは、ブラシの歯に毛が絡まっているのを痛がる様子も見せず、ただただ、付け根から尾先へと一生懸命にブラシを走らせているガッタを、慈しむような目で見守っている。
そこへ、ノックとともにカリーネがやってきた。
「ちょいと聞きたいことがあるんだけど」
「なぁに、ママ?」
「あっ、いや。ガッタちゃんにじゃないの」
「あら、私? 何かしら」
ルナールは立ち上がり、ガッタにブラシを返すように言った。そして、ガッタからブラシを受け取ると、ルナールはガッタに、ニースの様子を見てくるように言った。ガッタは、パタパタと急ぎ足でニースのいるベッドルームへと走って行った。
ガッタが部屋を出てから、ルナールがカリーネに話を振ると、カリーネは口を開いた。
「新鮮な青魚と夏野菜があるから、マリネでも作ろうと考えたんだけど、ニースの旦那は、酸っぱいものは平気かと思ってさ」
「そうねぇ。レモンやビネガーの酸味は、問題ないんじゃないかしら。ただ、生臭いものはお好きではないようだから、和える前に、お魚の臭みをしっかり抜いておいたほうが良いわね」
「よしっ。それなら、二人が下りてくる前に、パパッと作ってしまおう」
「私も一緒に作るわ」
ルナールはブラシをサイドテーブルの上に置き、キッチンへ向かうカリーネの後を追い駆けた。
一方、二階へ上がったガッタは、ニースをベッドの端に座らせ、自分はマットレスの上に膝立ちになり、櫛で銀色の長髪を梳かしていた。ニースは「それくらい自分でできるのに」と思いつつもガッタの好きにさせ、シャツのカフスを留めたり、ベストの尾錠を調節したりしている。
「ニースのかみ、ルナールとぜんぜんちがうね」
「ほぉ。どういう違いがあるのかな?」
「ルナールは、ぴょんぴょんはねてるから、スーッといかないの。でも、きょうのニース、あたま、ちいさくない? サウナのときみたいになってる」
「それは、きっと湿気のせいだろう。空気中の水分を吸収して全体的に髪が重くなり、立ち上がらずに寝てしまっているからだろう」
「どうやったら、おきてくれるの?」
「晴れて日が高くなれば、湿度が下がるから、ランチを終える頃には、自然といつも通りに戻っているさ」
「ムゥ~。じかんがかかるなぁ~。パッとカラッとできないの?」
「乾燥した熱風を当てれば、理論上は可能だろう。ただ、急速に水分を飛ばすと、髪が傷むおそれがある」
「なぁんだ。ふたついいことは、ないのね」
早々にニースの髪を梳かし終えてしまったガッタは、クルクルと指に巻き付けたり、リボン結びにしようとしたりした。だが、立ち上がったニースが襟足に指を入れてフワッと持ち上げて流すと、ガッタの手から髪がスルスルと抜け、結わえた跡もストンと消えた。
それを見たガッタは、コメカミあたりでピョコッと跳ねている自分の黒い前髪をひと房、指で摘まみ、ニースのようなサラサラにならないかしらと、口を尖らせながら上目遣いで髪に注視したのであった。




