001
古来より薔薇の花は、その優雅な美しさから、多くの人々を魅了してきた。
それは現実世界にとどまらず、この幻想世界でも同様である。
「さて。そろそろ水やりに行くか」
書斎で書き物をしていた青年は、羽根ペンをインク壺に戻し、書き上げた羊皮紙に船底型のブロッターを押し当てて余分なインクを吸い取ると、そのまま抽斗に羊皮紙を仕舞って立ち上がった。
この青年のフルネームは、ニースティ・ガニュメデス。周囲からは、ニースと呼ばれている。
二十歳そこそこに見えるので、便宜上、青年と表したが、実年齢は七十歳を越えている。それでも、窓の外の雪に負けない白さを誇る癖の無い長髪、知性を感じさせる青い瞳、しなやかな細い体躯を維持しているのは、ニースが長命を誇るエルフ属であるからである。そのことは、細面の両端にのびる尖った耳を見ても、一目瞭然である。
さて。窓際の書き物机の前から移動したニースは、ドアの横にあるコート掛けからトレンチコートを外し、袖に腕を通しながらドアを開け、底冷えする廊下へと一歩踏み出した。
このガニュメデス邸は高台にあり、一年を通して寒冷な地である。周囲に民家はほとんど無く、屋敷の周囲には見渡す限りの雪原が広がっている。
何故、ニースがこのように人跡まばらな土地に暮らしているのだろうか? 一つには、半世紀以上前に他界した両親から遺産として受け継いだという理由があるが、この他に、もう一つの理由がある。
「うむ。植え付けた苗は、順調だな。水はけも、悪くない」
廊下から通用口を抜け、屋敷に隣接しているガラス張りの温室へと移動したニースは、作業台の上にあった軍手をはめ、畝に並ぶ苗木を観察したり、土の表面を触って湿り具合を確かめたりしながら、納得した様子で大きく頷いた。
何を隠そうニースは、この地にだけ咲く紫の薔薇について、その生態と実用価値を研究しているのである。元来、学者肌でエルフともヒトとも交流を好まないニースにとっては、こうして物言わぬ花と触れ合うひとときが、何よりも至福を感じる瞬間である。澄ました表情をわずかにほころばせ、自然と口許に笑みが浮かんでいる。
いつもなら、このままニースは井戸へ行き、水を満たしたじょうろで苗に水をやるところなのだが、今日は、いささか勝手が違った。
作業台からじょうろを手に取り、ブーツの底でざくざくと霜柱を踏みしだきながら井戸へ向かったニースは、そこに一人のヒト属の黒髪少女を発見したからである。