宝石にまつわる話
序章
黄金色に輝きながら生まれてきた赤子がいた。
あの釈迦でさえ、生まれてきたときは、王の息子であったかもしれないが、普通の赤子として生まれてきたのに、黄金色に輝いているのである。どんな凄い赤子だろうと周りの者、策士をはじめ、もろもろの人々は、畏怖と驚きを持って見守っていた。
さすがの策士も理解を超えてたらしく、仏にお伺いを立てた。
「彼は何のために生まれてきたのでしょうか?これから何をなすのでしょうか?」
仏は仰せられたいう。
「四日間待て。四日待っても輝きが収まらなければ、殺してもよい。」
「殺すのですか?あんな凄い子を、どんな力を持っているかわからない子を?」
「そうだ。初めから力を示す者は、ろくな者にならぬ可能性がある。ただ見極めも大事だから、四日間だけ待ってみろ。」
「わかりました。お言葉通りに。」
その子は輝き続けていたが、三日目にぴたりと光るのを止め、普通の赤子に戻っていた。その後は、ごく普通の赤子としてふるまっていたらしい。
御大は四年過ぎてから、この話を聞いたらしく、彼を四歳の策士と呼んでいた。
あれは私が三十を過ぎ、結婚して、子供も出来てしばらくたったころであった。その日も仕事で、愛車にしていたランサーに乗り、滑川から魚津へ向かっていた。境の早月川を越して後、そのころは旧道のままで、狭い曲がりくねった道になっていた。前に建機用の大型トラックが走っていたため、抜くこともできず、ゆっくりと進まざろうえなかった。
少し大きめのカーブにきたとき、トラックが突然止まり、訳も分からず、私も慌ててブレーキを踏んだ。止まったところでトラックが急にバックしてきたため、驚き慌てて、バックギヤを入れようとした。
もともと機械というものに関しては、マニュアルとかアナログとかいう類が好きな方で、ランサーも当然のごとくマニュアルに乗っていたのだが、この車は構造的にギヤを押し込まないとバックに入らない構造になっていた。
急なことで慌てたのもあり、うまくバックが入らず、一瞬遅れたために、トラックはランサーのボンネットをかすって止まった。
トラックがバックをよく確認せずに下がったため、擦り、慌てて止まったのだろうと思い、確認のため、トラックと離れようとしたら、トラックはそのまま前に動き出し、進んでいってしまった。こちらも驚いて追いかけだしたら、100mも行かないうちに横の空き地に入って止まった。
私もその空き地に入って止め、たぶん他の車の邪魔にならないよう、ここによけて、話をしようとしたのだろうと思った。
だがトラックの運転手は、なかなか降りてくる気配がない。私もどうしたものかと、車を降り、ボンネットの傷を確認しながらトラックの運転席の方へ行った。同乗者と何やら談笑しているようだ。
態度が悪いなと思いながら、バックしてぶつけたでしょうと問いかけると、彼は知らない。ぶつかったのがわからないという。ここに止めたのも仕事の現場だという。
改めてあそこのカーブでバックしたでしょと問いかけると、あそこはカーブがきついから、一度バックしてハンドルを切りなおしただけで、車がいたのに気が付かなかった。ましてこすった感触はなかったという。
降りてきて私の車を確認し、エンブレムだけが割れていたようなのだが、相手もこのぐらいじゃわかるはずがないじゃないかと開き直ってきた。
しばらくもめたが、お互い警察を呼ぶほどの事故じゃないし、気持ちは収まらなかったが、仕事も迫っているため、後日話をしようと連絡先を確認し、別れた。
これが山瀬との最初の出会いである。
彼とはその後、なんとなく気が合い、酒を飲んだりしたのだが、ある時、「彫板」というものを知っているかと聞いてきた。知らないというと、ヒスイの小型の彫り物で、一種のお守りだという。
ヒスイは石の硬度は「7」で、そう固い方ではないが、粘りが強く、彫り物に向いているそうだ。
中国では古来、この石の彫り物が盛んで、中でもヒスイは、最も珍重され、大事にされてきたと話した。
彼のヒスイの彫板は、赤茶色の不思議な彫り方をした宝石だった。彼は意味ありげにそれを見せたが、私には特別興味がわかなかった。
一か月ほどしたある日、山瀬がある人を連れてきた。名前は忘れたが、宝石のセールスをやっている人らしく、盛んに宝石の良さを言い、私に売り込んだが、やはり興味はわかなかった。
大体、風体として、その人を信用する気になれず、変な人を連れてきたなあというのが、正直な気持であった。
まあそれでも山瀬との付き合いは続いていき、それから、二・三か月の後、夜に、合わせたい人がいるからと言って、私を乗せ、上市まで連れてこられた。
上市の田舎の方、夜なのでよくわからなかったが、こじんまりとした家だった。
会ったのは「御大」一見いかにも悪そうで、とてもじゃないが親しくなれそうに見えなかった。ただ、何を話したか覚えてないのだが、彼の話には、何か引き込まれるような魅力があった。そして話しているうちに、「宝石を持たないか。宝石はきっとあなたを引き込ませる魅力があるはずだ。」という言葉とともに、持ちたくなっていった。
ただ金のかかる話、30万だったと思うが、手元に現金はないし、親に話してみようとなったが、自信はなかった。
ダメもとで話をしたのだが、案ずるより産むが早し、やってみると思ったより簡単にOKを貰えた。
後からいろいろ判ってきたのだが、縁のある宝石は、本人が心から、持つ気になると、その時点からその人を守り出すらしく、周りにも働きかけてくれるらしい。たぶんその力も、私に影響したのだろう。
宝石(彫板)を持つようになってから、御大との付き合いも始まるようになり、彼からいろいろの話も聞くようになった。
世の中は、自分の人生を左右するような出会いでも、そのきっかけは、案外ちょっとした関わり合いという事が多い。
今回も偶然みたいなかかわりでつながったわけだし、私の周りで長く親しく付き合ってる友でも、そのきっかけが、ほんの短い偶然のようなめぐりあわせというのが、珍しくない。
御大と付き合うようになってきてから、少し宝石のことも分かるようになってきた。
私でも知っていたエメラルドは、ヘリオドールという宝石の仲間らしく、その中の緑色の石をエメラルドと呼ぶらしい。そのヘリオドールの中で、金色に輝く名宝があり、『リオの星』という名前が付けられていた。
『リオの星』はいろいろの変遷があったらしいが、その時はある老人の手に渡っていた。
世の中を動かす力を持っている重要人物は、いろいろ上げられるだろうが、総じて表に出てきている人より、裏にいる人の方が、力を持っている場合が多い。表に出れば、一見大きく、いろいろやれそうに見えるが、いろいろなしがらみに対処しなければいけないし、味方もできるが、敵も作りやすい。
その点、裏にいれば、いろいろ動きやすいし、周りが気が付かない分、効果も大きい。
その老人は裏の世界では「第六天の魔王」と呼ばれ、恐れられていた。
「第六天の魔王」は、歴史に詳しい人は知っているだろうが、「織田信長」のあざなとして知られている。
この魔王は仏教で、仏の説法を邪魔するときに現れたり、菩薩が仏になろうと修行するとき、必ず通らなければいけない、仏法の番人として現れるらしい。
彼はあらゆる分野を牛耳っており、いろんなフィクサーを使い、わからぬように影響を与えていたらしい。彼は御大のすぐ近くの村に住んでいたらしく、表向きは頑固な百姓のじいさんにしか見えなかった。(やはり魔王となれば、身を隠すのもうまい。)
事情を多少知っている商社の営業マンが、宝石を売り込んだことも何度かあるらしいが、ことごとくあしらわていた。
御大に、魔王さんに宝石を売り込めないかというという話が回ってきたとき、たまたま魔王さんの田んぼを、以前から少し御大の家が小作していたらしく、彼の家に入り込むきっかけを作れたらしい。御大の独特の話術で、魔王さんを宝石の世界に引き込み、『リオの星』を持たすことに成功した。
御大の話術の面白いところの一つに、私が初めて持たされた彫板の時もそうだが、宝石を持たずにセールスをするところにある。一品だけの世界であり、宝石を見せなきゃ話にならんだろうと思うが、彼は宝石を見せず、もっと言えば、彼も見たことがなく、売り込むのである。
もちろん大体の形とか謂れとかは聞いていたりするのだろうが、現物を知らずに話ができる不思議な能力があった。
話にお客を引き込み、持った時の夢を見させる話術の世界が展開するのである。
そして、彼の特技の一つだが、相手のギリギリ、目いっぱい出せる金額を見抜くことができた。
額の大きさでなく、その人が、その宝石にほれ込んで、どれだけ出せるか、わかるのが、特技だった。(もちろん、サラ金で借りたりする、無理はなくである。)
その人が一生懸命になれば、縁のある宝石は、必ず来てくれる。無理のない金額を、用意できる手段を与えてくれる。それが、宝石の力だと言っていた。
魔王さんへの売込みが成功したことで、御大は商社グループの中で、一目置かれるようになったらしい。
彼は見事に魔王さんを宝石の世界へ引き込み、曼陀羅のようになった宝石の類を次々持たせ、次に何を持てるか、魔王さんが楽しみにするところまで行った。あと一歩で彼が完全に変わるというところで、仏が止めた。
なぜか?その時、世界を変える力を持っていると思われた魔王を、御大の配下につけてしまえば、それでもう、八番の仕事は完成してしまう。
それではもう、これから出てくるであろうスタッフや、もろもろの宝石にかかわる者たちが必要なくなる。彼らは雑用をかたずけるために、現れるのではなかろう。
仏が御大に託した仕事は、そのようなものじゃない。
持ちたくてたまらなくなっていた最後の宝石を、仏が止めたことにより、魔王は「第六天の魔王」として、改めて目覚め、八番の仕事の敵になり、あらゆるスタッフを使って御大の仕事を邪魔し始めた。
また別の意味では、彼の隠れたスタッフがあぶりだされて、動き出した。
魔王さんの力が、あまりにも強く、できたお客を狂わせたり、その本性を現せて、持てなくさせてみたりするもので、対応策を見いだせず、昔、大阪時代(おいおい述べるが、御大は若いころ、大阪でいろいろ面白い「悪い」ことをやっていたらしい。)に付き合いがあった山口組の幹部に、相談を持ち掛けたらしい。
いろんな方面に顔が利くその人は、二つ返事で引き受けてくれたのだが、彼から帰ってきた返事は、「御大、あんたとんでもない人を相手にしとるようやな。わしらみたいなペーペーではどうしようもないですわ。手を引くというより、降参したほうがいいですよ。」という返事だった。
ここでようやく「第六天の魔王」の凄さを知るようになり、仏教書や宝石書を読んで、仏の力を探り出すようになった。
皆さんも疑問に思われたことがあるかもしれないが、仏教には仏道を説いた数多くの経典があるが、どれが正しいのか?全部正しいというには、ぶつかり合う経典が多すぎるのではないか?まして世界には、もっとたくさんの宗教があり、経典がある。
真実はあるのかないのか?又あるとすればどれなのか。
策士は答えられないし、その疑問を持った時、まだ仏もこの仕事にかかわってきてなかったから、聞くことができない。いろいろ調べたらしい。
新興宗教にまで思いを巡らし、たどり着いた結論は「真実はある」であった
。
その経典は「南無妙法蓮華経」であるという事だった。
もちろん異論のある人も多かろうから、ここで宗教論争をする気はないが、彼は法華経にたどり着き、策士もそれを認めた。
この「八番」の仕事は、法華経の世界を社会に具現化するために行われているのだと。
これまでの我々の知る歴史では、完全ではないが、三度、法華経の世界が具現化された。一度目は釈迦が現れたインド、二度目は鳩摩羅什が法華経を訳し、天台大師智顗が魔訶史観を説いた中国、三度目が日蓮が現れ、法華経を広めた鎌倉時代の日本である。
そして今、八番の本当の力、法華経の世界が生まれようとしている。
策士は御大に「いろいろ大変だろうが、あなたは150歳まで寿命があるので、その間にスタッフを集めて、本当の法華経の世界を作りなさい。」と仰せになった。
彼はそれをずっと信じ、紆余曲折を得ながらもやってきた。
御大に対抗するいろいろのグループ、例えば、「龍密密教」の策士集団は、主に御大の頭に念をかけ、頭痛で思考能力を奪おうとした。彼はもともと酒が好きで、浴びるほど飲む方だったが、この頭痛は飲んでも取れなかったらしい。
こちらの策士がある漢薬屋を通じて、宮家でもめったに使えない漢薬を調合し、頭痛を抑えると思に、念を消したらしい。
またいろいろの呪詛をかけ、大事な宝石を持たさないようにしたり、スタッフが離れていくようにした。
私には理由がわからないのだが、ある時期から、宝石の仕入れ担当をやっている高山さんと御大は直接会えない決まりができていた。最初のころはよく会っていて、宝石のことや、お客さんのことを相談し、策士にも問い合わせができたらしいが、ある時期から禁止されたらしい。
連絡とか、金の受け渡しは、スタッフを通じて取り合うことになり、これは最後まで続いた。
私自身も一度だけ、山瀬を通じて高山さんの家に行ったことがあるのだが、会えない理由は聞けなかった。
龍密集団は邪の宝石を使ったり、訳の分からない訴訟や、国税局を使っての脅しなど、今はあまり覚えてないのだが、考えられるあらゆる手を使って、邪魔をしてきた。
それでも、少しずつ宝石を伝えたり、手元に置いたりすることで、宝石の力が発揮され、わからなかったことや、邪魔をする包囲網を解き始めていった。
何より驚いたのは、「第六天の魔王」は、前世において、御大自身であり、御大の分身として現れてきたもの、修行をするために、御大自身が作り出したものだとわかってきたことである。
魔王が大きな力を持っていればいるほど、ひるがえって、御大が魔王を乗り越えた時、どれだけ大きな力を持てるかの証になるのである。
ある時期から、彼は魔王を恨まないことにしたと言っていた。
アレキサンドキャッツアイ
宝石が少しずつ分かるようになり、その魅力にひかれだしたころ、嫁さんが宝石を好きになるきっかけを作った事件があった。
御大と付き合い始めた当初は、個性的な人柄というか、物怖じしない生き方が気に入って交際始めたのだが、嫁さんは、宝石といえば結婚指輪ぐらいで、彼が来ても、旦那の気の合う友達の一人ぐらいのつもりで、付き合っていたようだ。
ある夜、ふらっと立ち寄った御大は、「今からお客さんのところへ、真珠のネックレスを届けに行くのだ。まだ早いから、ちょっと寄った。」と、お茶を飲みながら話していた。
よもやま話の流れで、嫁さんに、「今から渡すネックレスを見てみる?」と問いかけたら、珍しく見てもよいという返事だった。
それまでも、いくつかの宝石は見たと思うのだが、興味を示したこともなく、今回もただ見るだけだろうと思っていた。
このネックレスは、養殖ではなく、粒はそんなに大きくないが、天然真珠を組み合わせて作ったネックレスだった。
天然真珠は今ではほとんど見ることは無くなってしまったが、偶然にできるもので、芯から貝のかけら等で、できているわけで、真珠層の厚みも、輝きもけた違いに違ってくるのである。
そのネックレスは、大きさはそろっていたが、色はピンク、青、緑などの色が、深みをもって混ざったものだったと思う。(真珠独特の深みを持った色合いがゴージャスだった。)
このネックレスを見て、目の色が変わった。
どこに持っていくのか?いくら程するのか?こんなのが、他にもあるのか?しつこく聞くのである。
御大も弱って、これは、今からある人に届けなきゃいけない。
変わりは、商社に聞かなきゃ、あるかどうかわからない。
有っても、こういう逸品物だから、色、形も違うはずだと説明した。(彼はレアストーン専門に扱っていたので、当然同じものは用意できなかった。)
それでも欲しいということになり、今度は私が困った。お金のかかる話だし、宝石を好きになってくれるのはうれしいが、結婚してまだ5年ほど、貯金もそんなにない状態だった。
でも欲しい。どうしよう。こうなると女は強い。
私、明日、実家に行って頼んでくるといい、本当に実家に行って借りてきた。
その時、手に入れたネックレスは、今でも大事にしているが、嫁さんに言わせると、紐が切れたりするのが怖いから、めったにしないという。
ちなみに娘用にと、一年経たない間に、色違いを用意しよった。(これは清楚な感じ)女は怖い!
ある時、アレキサンドリアキャッツアイを持たないかという話になった。
クリソベリルという宝石がある。一般的には、赤っぽいウィスキィー色をした宝石と表現したほうがいいだろうか。その中でも、猫の目のようなキャツアイ効果を持つ宝石がまさにキャッツアイとして、世に珍重され、高価に取引されてきた。
さらに帝政ロシアの時代、ウラルで昼と夜に色の変わるアレキサンドリアという宝石が発見され、これもクリソベリルだと言いうことが判った。
その時の皇帝の名前にちなんでつけられた、この宝石は、希少性から、より高く取引された。
そして、その後、さらにこの二つの効果を、同時に持ってる宝石が発見され、「アレキサンドリアキャッツアイ」と名付けられた。、
私が御大と付き合いだして、5年ほど経っていただろうか。当時、日本には、アレキキャッツアイはまだ2-3個しか入ってきておらず、その一つを、ある宝石商社の社長が持っているらしかった。
彼にすれば、長い間待って、やっと手に入れた逸品、簡単には手放さないだろうが、今なら、宝石自身が放れたがっている。放させるチャンスがあると策士が見ているらしかった。
一か月以内に300万用意できれば、手に入れるチャンスがあるという。
欲しいけど弱った。そんな金、手元にあるはずがない。夢で終わるだろうと思っていたら、たまたま聞いていた嫁さんが、助け舟を入れてくれた。
魚津市の誘致で、大手電機メーカーの山下電機が、嫁の実家の方に工場を建てるらしい。すでに実家の田んぼも買い上げられたから、そこそこのお金が実家に入ってきたはず。
頼めば貸してくれるかもしれない。
そうは言っても、こちらは他人、でも婿の頼みという断りにくい立場を利用し、ダメもとで頼み込む。
返す金ができるまで、宝石を実家に預けるという約束の下、アレキキャッツを手に入れることができた。
そしてこのアレキで、ちょっと面白い展開が起こった。
アレキキャッツは手に入れたものの、私にとってはかなりの大金が動いており、この宝石が金額に見合うだけの価値があるものかどうか、少し不安になった。
御大を信じないわけではないが、やっぱり不安になるのが、人というものである。
そこで御大が私に提案した。宝石の鑑定協会もあるが、そこで評価されれば、宝石が公に出る格好になり、評価額に応じて税金がかかってくる。
それより大きな宝石屋さんでみてもらいなさい。金額は出なくても、大きな宝石屋は、石の価値を評価できるから、一つの目安になるはずだ。
どうせなら富山の宝石屋より、日本でも指折りの宝石屋、銀座の和光とか、大阪の芝翫香などへ持っていけばいいんじゃないか。
よく訳が分からないまま、そうしようということになり、どこへ行くか問題になった。
当時わかる範囲で、読売新聞が出版している「宝石」の本などを頼りに、宝石商を探った。京都にある、日本で3番目の宝石卸会社「ヒミコ」に行ってみようということになった。
ヒミコは戦後、払い下げの宝石などをもとに大きくなった宝石卸会社で、社長も業界でかなり名が売れているらしかった。
さすがに現物を持っていくのは、何かあったら怖いし、「全国宝石協会」の鑑別書があったので、それを持っていけば、かなりのことが判るだろうということになった。
夫婦で京都旅行を兼ねて「ヒミコ」に行く事になった。場所は京都御所のすぐ近く、小さいながら自社ビルを持っており、なかなかの羽振りと見えた。
玄関に人はおらず、締め切ったまま。呼び鈴を押すと、どういう要件か問いあわす声が聞こえてくる。
宝石の評価をしていただけないかと頼むと、しばらく待てと言い、やっと上の方から人が下りてきた。扱っているのが宝石とはいえ、当時としては信じられないくらいのセキュリティである。どうやらまだ珍しかったTVカメラで、こちらを確認していたらしい。あまり厳重にされると、こちらもおちつかない。
ビルに入り、すぐエレベーターで3階へ、お客を入れる部屋に通され、課長らしい人が対応したが、他には誰も見ることがなかった。
話を進めていくうち、結局、こちらのアレキの話より、彼の在庫である宝石の話が中心になり、宝石を売りたいらしく、当時として驚くほど大きい、いろいろの宝石を見せられたが、これらは正直言って、大きく輝いているだけで、魅力はなかった。(価格にも驚かされた。)
本当に良い宝石は、名優が美人なだけでなく、俳優としてのオーラを周りに放つように、何かオーラを放つ。(私たちは念波と呼んでいた。)
そのオーラを感じ始めると、輝きだけでは、宝石に心がときめかなくなる。
結局、見るだけで終わったが、後日、「ヒミコ」が倒産したと知った。
理由はいろいろとあったと思うが、御大がその後、教えてくれたことが、彼の業界に対する影響力を感じさせた。
旅行の話を軽い気持ちで御大に話たのだが、これがどういう訳か商社のトップか策士に伝わったようだ。名宝といえる宝石を侮辱したということで、「ヒミコ」を倒産させてもよいということになったらしい。まさかの展開に少し動揺したが、言動を慎めという教えでもあった。
ヒスイの話
御大とかなり親しくなったころ、面白い話を聞けた。
ヒスイ原石に彫り物をした小型の石を、我々は彫板と呼んでいたが、これは彫板でも大きめの、ベルトのバックル用に作られた彫板の話です。
もともと華僑のかなりの大親分の持ち物だったらしい。
中国人のこと、命の次ぐらいに大事にしていた宝石らしいが、ある事情で、どうしても手元に置いておけなくなった。
彼は子分で目立たないが、かなり信頼のできる男に、それを預ける形で、売った。(いつでも買い戻せると思って)
子分は大事な親分の持ち物だし、そんなに高くない金だったので、喜んで買い取った。(もちろん大事にしていた。)
ただその彫板には、ちょっとした歪みがあったらしく、彼は信頼できる修理機関として、日本の商社の下請けに修理を頼んだ。
修理期間も、そんなに長くないため、問題はないだろうと思っていた。
その時、日本の商社のトップである総督(我々はそう呼んでいる。)が、どういう訳かその経緯を知っていて、これは戦災一隅のチャンスだということで、うまく丸め込んで、その彫板を買い取った。
子分はかなりいい値で売れたので、高く売れたことを親分も喜んでくれると信じ、手放したことを報告した。
びっくりしたのは親分である。こいつなら間違っても俺から貰ったものを手放すまいと思ったのに、簡単に放してしまった。
それも正式な契約書と領収書が付いているわけだから、文句のつけようがない。
華僑がヒスイをものすごく大事にしているのは、ご存知だと思うが、実は、これはその中でも名宝中の名宝といえる彫板であったらしい。(もちろん子分は、そんな凄いものだとは知らないから売ったわけだが。)
その彫板は、回りまわって、今は御大の知り合いの人の手にある。
見たことがあるのだが、竜の彫り物がしてあるバックルだ。
話は変わるが、ヒスイで一番人気があるのは、いわゆるロウカンと呼ばれる緑の濃いヒスイだが、これはすごいというのが、昔、国立科学博物館の宝石コーナーにあった。
今は展示内容が変わってしまい、見られないようだが、それは、緑の塊が、雫となって垂れ下がっているような形をしたペンダントトップだったような気がする。
確か、昔、始皇帝の持ち物だったと説明してあった気がするが、始皇帝のころは、ミャンマー産のヒスイはまだ出回っていなかったような気がする。
さて、このヒスイ、昔、糸魚川でも見つかった時、かなり騒がれたが、華僑がすぐ入り込んできて、良いものを根こそぎかき集めていったと聞いている。
地元の人によると、石垣の石に使っていたものでも、良いとなると、買い取って、石垣を崩してでも取っていったという。(まあ、中国人の惚れ込みようは、半端じゃない。)
今、我々が海岸で探しているのは、それらのお零れみたいなものだ。(なんか悔しい。)
ヒスイの話をもう一つ。
これは御大も聞いた話なので、間違って伝わっているところもあるかもしれない。
高岡の兄ちゃん」と呼ばれていた人がいた。
富山県、高岡市に住んでいた、軽い知的障害児の男の子で、確か八百屋さんか何か個人経営を営んでいた、小さなお店の一人息子さんだった。
昔のことだから、小、中学校と軽いいじめにあっていたようだ。(今だったらうるさいだろうが、昔は珍しくなく、そんなに騒がなかったようだ。)
その兄ちゃんが、何かのきっかけで、御大の仲間である、宝石の営業員と知り合い、ヒスイに興味を示した。
握りこぶしより、少し小さなヒスイの「布袋さん」の彫り物だったらしいが、どうしても欲しくなり、親に頼み込んだ。
普段、特別、何かを欲しがるということもなく育っていた子供が、すごく欲しそうに親に頼むものだから、親も子供の思いに負け、それを買ってやった。(安くない買い物だし、生活するのにやっとの商売だから、親にとっても、子供可愛さで、思い切った選択だった。)
兄ちゃんは、その「布袋さん」を絹の布で包み、お守りのように布の袋に入れて、大事そうにいつも持ち歩いていた。
よっぽど、気に入っていたのだろう。
いつも「布袋さん」を持ち歩いていると聞いて、その営業員は思いついて、宝石のセールスをしてみないかと、持ち掛けた。
親は知恵遅れの子供だし、とても営業なんて厳しい世界で生きていけるような子供じゃないと、反対したが、兄ちゃんは、「布袋さん」をすごく大事にし、それにかかわれる仕事ができるなら、やってみたいと言い出した。
彼の売り方はこうだ。
口下手で、セールストークなんかとてもじゃないができるはずがないから、自分で、この人だと思う人に出会うと「布袋さん」を見てほしいと頼む。もう高校生ぐらいだったろうが、お客さんは、子供の言うことにほざされて、見てもいいよと返事をする。
そこで彼は袋の中から、大事そうに布にくるまれた「布袋さん」を取り出し、いかにも「布袋さん」が好きだという仕草で、相手に大事そうに渡す。
大事そうに渡されれば、相手も大事に扱わないわけにはいかない。そうしてみると、その「布袋さん」の良さが、自然と相手に伝わる。
ほとんど、さしたるうまいセリフもなく、「布袋さん」が好きになり、欲しくなるのだ。
彼は瞬く間に、この営業でトップになり、東京へ出ていき、全く知らない場所でも、同じようなやり方で「布袋さん」を売りまくった。
彼はヒスイの「布袋さん」一本で、商売をしたというわけだ。
縁あって、商社の幹部にもそれが伝わり、ご褒美として「香港旅行」が与えられた。
喜び勇んで旅行に行ってきた彼は、土産話として、「僕は今まで、ヒスイといえば「布袋さん」しか知らなかった。いろんなヒスイがあるんだなあと初めて知り、びっくりした。」と言った。
それくらい一途に、ヒスイの彫り物を売り歩いた彼は、やがて商社のトップに認められ、あの「ロックフェラー」のところで、養子待遇で宝石の勉強をしたらしい。
今どうしていらっしゃるか知らないのだけど、たぶん、商社の幹部に収まっていらっしゃるだろう。
一途に、大事に、本当に好きで、物事をやることができたら、人生は楽しいだろうなという話でした。
大阪時代
趣向を変えて、御大の大阪時代の話をしよう。
昔、彼は高校を卒業後、ダムなどの土木に力を入れていた「山田建設」に入り、広島のダム現場に行っていたらしい。
真面目というより、仕事内容のうまさで、すぐ認められるようになった。
2年ほどで大阪支社に移り、橋の工事などを手掛けたが、一年務めた後、自分から会社を辞め、廃棄物処理の仕事についた。人の嫌がる仕事に面白みを感じたらしく、結構楽しく働いたという。(彼に言わせると)
万博景気に沸いていたころ、ある工事現場の廃棄物処理をしてくれと頼まれた。
大手の下請けがやっていたらしいが、規則通りに処理しようとするため、中心街にある現場から処理場までが、運ぶのに遠く、1か月かかってもなかなか進まない。見積もらせると、まだ三か月以上かかるだろうとの返事で、付随した仕事が遅れてどうにもならないから、何とかできないかと、お鉢が回ってきたらしい。
彼はその仕事を3日で終わらせたといっていた。
やり方がふざけて面白い。
まず現場のごみをダンプに積んで、走らせる。
たまたま交差点で、何かの交通整理でお巡りさんが出ている。普通だったら注意を受けるのが嫌で、さけて通るが、そこで彼はそのお巡りさんに声をかける。
「すみませんけど、ここで明日から工事にかかるんで、必要な材料を運んできました。どこか近くの邪魔にならない場所に降ろしたいけど、誘導してくれません。」(もちろん出まかせ)
親切なお巡りさんは、「わかりました。」と言って交差点わきにその廃棄物を下すのに、わざわざ誘導までしてくれたそうだ。
「この後、まだ材料を持ってくると思うので、よろしくお願いします。」「はいわかりましたよ。」(調子がいい。)
いつもこんな調子でやれたわけではなかろうが、機転の利く仕事ぶりで、周りを振り回した。
時間のかかる運送を済まし、3日で仕事を片づけると、事情を知らない現場監督は、喜んで、次の仕事も頼んでくるようになったと、面白おかしく話していた。
騙すことはよくないという人もいると思うけど、発送の転換も必要というお話。(度胸を磨くのも、必要です。)
宝石の良いものを例えるのに、サファイアならカシミール(地名)、ルビーだったらピジョンブラッド(鳩の血)、エメラルドならムゾー(これは産地)とあるが、どれも希少すぎて、私も含めて、ほとんどの人は見たことがないであろう。
カシミールは、インドのヒマラヤのふもとらしいが、服地でもカシミアといって、高級な布の産地だ。
カシミアのセーターは持っているが、やはり手触りが他のウールと違って、柔らかい。(さすがに服地は、高級といっても手に入る。)
カシミールサファイアをたたえるのに、コーンフラワー色(矢車草の青)というが、矢車草はきれいだが、そんなにすごい青には見えない。
人の幻想はどんどん膨らんでいくから、見なくても最高の青になってしまうのか。
ミャンマー産のきれいなサファイアは見たことがあるが、横から見ると透明に見える。サファイアは一番きれいな青が見える面を、上にカットするらしい。
ピジョンブラッドの赤いルビーはまず出てきたことがないくらい幻だ。
幻想が幻想を掻き立てているような気がする。
宝石は幻想を掻き立てるから、より希少になるのだろうが、幻想をキャッチコピーにするのが、現在のダイアモンドだ。
有り余るものを、希少に見せるのも、ある意味、大変だろうと思う。
結局は、人の想像、夢が世界市場を動かし、欲望に引っ張られて経済が回っているのだから、仕方がない。
ダイアモンドの話が出てきたので、ちょっと話します。
何かの本に書いてあったの覚えていただけなので、受け売りと思って聞いてください。
「ダイアモンドはだれのもの?」
「デビアスのものである。」
デビアスが世界中のダイアモンドを管理している。もちろんユダヤ人が見え隠れするが、実際に動かしているのはデビアスである。
デビアスは19世紀後半、南アフリカに大きなダイアモンドの鉱脈が見つかったころ、セシル・ローズという人によって生み出された。
彼はダイアモンドの総出荷量を調整することで、供給過剰を抑え、意識的に枯渇状態に保ち、価格を高値安定させた。
さらにオッペンハイマーが出てきてから、絶え間ないダイア鉱脈の発見と、生産量の爆発的拡大に対処するため、広告というメディアの使い方を見つけた。
つまり、「ダイアモンドは永遠の輝き」、「婚約指輪は給料の3か月分」などというキャッチフレーズで、膨大な量のダイアをさばける方法を見出した。
愛とダイアが結びついたのは、ここ100年ほどのことだが、それがどれだけの需要を生み出したかは、みなさんご存じだろう。(事実、私も結婚の時、奥さんにダイアを送った。)
今では、宝石にかかわる有識者と思われる人たちまで踊らされ、広告を使ったダイアの意識的希少性と、愛を、「婚約の必需品」という合言葉で結び付けようとしている。