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八節 delay(ディレイ)

 洋食 黒猫亭を後にして、センター街をそぞろ歩く。


 ウィンドウショッピングに興味を失くしたのか、横に並ぶ葵さんは気の早いクリスマスオーナメントが飾られたアーケードの天蓋にぼんやりと視線を向けている。やがて、どちらからともなくセンター街を逸れて、山手に足を向けた。それは大学生だった頃から、二人のお決まりのコース。


 JR元町の高架を潜って少し登ると、小さな雑貨屋やギャラリーが点在している。陽の落ちた山手の通り沿いに、小さなショップが明かりを灯して待っていた。



「見て。あのイヤリング、可愛くない?」


「まぁ、可愛いんじゃないですか」


「なんやの、その気の抜けた返事。相変わらず朴念仁やな」


「久し振りですよ、日常会話でボクネンジンとか言う人」


「うっさいな…… ええわ。次行こ」



 きびすを返した彼女の後を追いながら、振り返って店内に軽く頭を下げる。カウンターの向こう側で女性店員が、微笑みながら会釈を返してくれた。


 次に入ろうとしたショップではオーナーらしき男性がもうレジ締めをしていたので、店内をくるりと回ってすぐに出てきた。



「イヤリング、探してるんですか」


「ん、別にええねん。耳飾りは、学生時代の彼氏がうてくれたコレがあるから」


「……まだ着けてくれてたんですね、そのピアス」


「だって、作家の一点物やで。もともとバロックパールって形が不揃いやのに、これは奇跡的に気に入ったしな。それにめっちゃ無理して買ってくれてんで、当時の彼氏」


「はいはい。バイト代が吹っ飛んで二ヶ月くらい昼飯抜きで。半泣き状態でしたよ」


「だから弁当作ったったやん。あとな、私も嬉し泣きしたって」


「作家さんも思わずもらい泣きしてましたね。年上の彼女に貢ぐ健気な俺を哀れんで」


「なんなん、自分。久し振りに会いに来たのに喧嘩したいん?」


「あ、やっぱり会いに来てくれたんですね」


「……ホンマ腹立つわ」


「相変わらず感情の起伏が激しい」


「他にも色々と根に持ってるねんからな」



 勝気な言葉とは裏腹に、俺に向かって伸びてきた指先はコートの襟元をつまんだまま小刻みに揺れている。気が付くと、寒風に震える季節外れの蝶の様なそれを両手で包み込んでいた。彼女の左掌、人差し指から小指までの付け根は痕を残して、俺の指先に硬い感触を伝える。


 梓先輩と同じく、大学卒業以降は弓に触れていないらしかったが、弓引きだった痕跡は容易には消せない。



「君のいまの相手、女じゃないでしょう」



 不意の問いに言葉が詰まる。間近でこちらを見上げる瞳孔は街灯の明かりに透けて、感情を隠そうともしていない。



「わかるねん。私に触るその手付きで」


「俺は……」


「別にええんよ。私もいま相手おるし」



 互いの左掌は合わせたまま、右手を彼女のうなじに伸ばす。くすぐったそうに首をすくめるのにも構わず、冷気に震える桜色の耳朶を指先でなぞった。歪にえぐれた濃灰色のパールが記憶のままに揺れる。



「やめとこうって言ったのに。痕を残すことにこだわったのは葵さんですよ」


「残したかってん、見えるところに」


「そこまでしなくても、あの人には十分でしたよ」



 彼女の左手が、俺のコートの表面を滑り落ちていく。よろめく様に数歩距離を取ると、細っそりとした背を向けた。短く切り揃えられた髪がにわかに彼女を小さく映して、かつて弓道場で見せた端麗な射の面影は既に失われている。


 梓先輩をもって届かないと悟らせた弦音。彼女が弓を引き絞る時、そこには弓引きとしての彼女は既に無く、ましてや弓の一部ですらなく、もはや弓自身が彼女だった。


 立禅の境地。彼女の弦音の冴えにそれを垣間見た瞬間が、俺にもあった気がする。だが、所詮それは一人で踏み入る事の叶わない禁域。いまは損なわれて、俺の記憶の中でしか鳴らない弦音。



「ハーバーランド」


「……え?」


「今日帰ること、実家には伝えてないねん。ホテルまで送ってくれる?」


「葵さん」


「わかってるから」



――――――



 あれから何処をどう走ったのか記憶にないが、気が付くと一人でこの場所に来ていた。


 神戸市街地を離れて、長田区のローカル商店街をさらに脇道へ逸れる。一方通行の道をしばらく進み、深夜の雑居ビル前に車を停めるとコンクリート打ちっ放しの階段を這うようにして上がった。


 辿り着いた先には金属製の大きな扉。そこには「delayディレイ」とだけ刻まれた無愛想なプレートが打ち付けられている。梓先輩の店だったが、いまはオーナー不在で長らく営業していない。


 合鍵を使って、入り口の扉を開く。ブラインドを上げると、前の道の街灯が滑り込んで店内を暗く照らす。カウンターの上に不規則に並ぶショットグラスは、すべて俺が使ったものだった。それ以外には記憶と寸分違わない拒絶しかない。


 壁面のラックに視線を走らせて、透明なボトルを一つ掴み取った。「ABSOLUT」とかいう名の何処かクソ寒い国のウォッカ。口を付けて煽ると、外観通りに雑味を排したアルコールの冷たさが喉を焼く。


 馬鹿じゃないのか。こんな物を飲んだって何にもならない。いくら弓を引いて無心になっても、あの人は帰って来ない。いや、わざわざ無心になんかならなくても、とっくの昔に俺の中身は空っぽだった。性別以前に人としてあの二人に惹かれてしまったせいで、どちらも傷付けてもう取り返しがつかない。



「あんた、いま何処にいるんだよ……」



 呟いた言葉の先、カウンターの上に無言で光るショットグラスが嘲っている。左腕を無造作に伸ばす、そこには所作もクソもなかった。手中に掴んだ一つのグラスを振り向きざま、衝動に任せて壁に叩きつける。


 左掌に埋まったガラス片が鮮やかに染まるのを見ながら、ウォッカをもう一度煽った。丹田を滑り落ちていく冷えた痛みが、今度こそあの弦音を消し去ってくれる事を祈りながら。




(了)

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