七節 アイリッシュ・コーヒー
一人で稽古する夜は、弓道場に五枚あるシャッターの内、下座の一枚だけを降ろさずに残して弓を引く。
みぞれ交じりの雨に水銀灯の照明が宿り、矢道に銀粉となって舞っている。かじかんだ左手の中で、弓が滑った。手の内が定まらないまま放った矢は的の十時に刺さり、堅い音を鳴らす。的の木枠を貫いてしまったらしい。
残心を解いて射位から下がると、思わず溜め息が漏れた。今夜はこれくらいにしておけということか。
矢軸を握って少しずつ捻り、木枠から慎重に引き抜く。照明に翳して回転させ、歪みがないか確認する。矢は無事だったが、的を一つ痛めてしまった。明日、備品係に報告しないと……
最後のシャッターを降ろして照明をすべて落とすと、冷え切った静寂に天井を叩くみぞれの音だけが落ちてきた。今夜はバイトのシフトが入っていない。玄関の戸締まりをしてキャンパスを横切り、駐輪場に足を向けた。
神経質に明滅を繰り返す外灯の下、クラシックな二輪車のシルエットがいつもの定位置に浮かんでいる。シートを銀色に輝かせている夜露を掌で払い、右足のキックでエンジンに火を入れた。暖機しながらレザーグローブを取り出して、真新しい感触に指を通す。かじかんだ五指をゆっくり握り込むと、しなやかな鹿革が微かな軋り声で鳴いた。
駅前のロータリーを抜けてアクセルを開放していく。怜悧な外気を送り込まれて、太腿の間で嬉しそうに拍動する単気筒エンジン。だが、その音色を耳で楽しむ間もなく、ヘルメット越しの視界に大きく開けた平地が白く浮かんできた。金属製の高い柵で囲まれた楕円形の空間は、大学の第二グラウンド。
野球、サッカー、ラグビーなどの球技サークルの他に、弓道部も稽古のためにここを使うことがあった。弓道場では的との距離が28メートルの「近的」、対して第二グラウンドでは的との距離を倍以上の60メートル取って「遠的」と呼ばれる稽古をする。遠的稽古の機会は多くなかったが、遮蔽物のない空間で遠くの的に向かって弓を引くのはまた別格の楽しさと開放感があって、部員達にとっても良い気分転換となっていた。
だが、いまこの広大な空間は、その面積の約半分しか使用できない。
グラウンドに繋がるスロープをローギアで一気に駆け登ると、すぐにシフトアップする。クラッチレバーを切る左手に、弓の感触がまだ残っていた。そのままエンジンを低回転に保ちながら、砂地をゆっくりと進む。
目の前には、大きな工事現場で見かける仮設事務所に似た建造物があった。先刻のみぞれはいつの間にか止み、雲の切れ間から落ちる月明かりに相似の簡素なプレハブ式住居が肩を寄せ合って並んでいる。
阪神・淡路大震災の被災者を対象とする仮設住宅だった。
実家に程近い大学に通いながらも、事情があって梓先輩は一人暮らしをしていた。大学から斡旋された二階建ての下宿は良く言えば「レトロ」な外観。安価な家賃と大家の賄いが魅力だったが、震度7の激震に晒された築年数不明の木造物件はひとたまりもなかった。
「明け方、物凄い揺れで飛び起きた。家のあちこちからバキバキって音がして、揺れがようやく収まってきた頃に窓から外に出てみたら、二階に住んでたはずやのに目の前が道路やってん。一階に住んでた大家さん一家にはお世話になっててんけどな……」
大らかな気質の梓先輩は大抵のことを冗談にして笑い飛ばしていたが、この時だけはただ静かに、淡々と言葉を口にしただけだった。自然、先輩の友人や弓道部の部員も普段は震災の話をすることはない。双子の妹である葵先輩を始め、家族全員から実家に戻る様にいくら説得されても、梓先輩は固辞したらしい。
そして、あの日から一年経った今でも、この簡素な空間に暮らしている。
無機質に建ち並ぶ住居の群に人影は見えなかったが、少し手前のフェンス際にバイクを寄せてエンジンを切った。仮設住宅の外壁は薄く、ある日、先輩の部屋の前までバイクで乗り付けて隣近所から苦情を言われて以来、こうするのが癖になっていた。
横に長く連なるプレハブ式住居は、映画で見た江戸時代の長屋を連想させる。ヘルメットを片手に提げて歩いて行くと、自室の前に先輩の姿があった。何処かで拾ってきたらしいベンチに背を預けて空を仰ぎ、口許から呼気を白く立ち昇らせている。煙草を吸っているのだろう。
足音に反応してこちらを向く眼差しが優しい。特に言葉も交わさないまま、無造作に差し出された煙草を受け取る。弓道場で声を張り上げる快活な先輩はここにはいない。煙草の先端を紅く燻らせて、凛と冷えた外気を肺に流し込む。フィルター側を先輩に向けて返すと、唇でそれを受け取ってまた吸い始める。その視線の先を追うと、頭上に散開する星達の輪郭がいつになく鮮明だった。
「今夜は冷えるな。中に入ろか」
誘われた室内は、先週ここを訪れた時よりさらに殺風景になっていた。大学院への進学を断念して大手企業からあっさりと内定を獲得した先輩は、卒業と同時に神戸を離れるらしい。先輩自身の口から告げられた事はないが、ここを訪れるたびに姿を消していく家財がそれを代弁していた。
ワイヤーハンガーに手を伸ばして、ダウンジャケットを掛ける。玄関脇の窓枠にそれを吊るして振り向くと、こちらを見詰める先輩がいた。正確には俺の足下に転がるヘルメット、その中に突っ込まれたレザーグローブを。
「どしたん、それ」
「……クリスマスプレゼント」
「せやろな。葵が好きそうなシンプルなデザインやわ」
そう呟くと、カセットコンロに載せたホーロー製のケトルで湯を沸かし始める梓先輩。冷たい物がにわかに丹田へ降りてきた。プレハブ式住居の断熱材は粗末なものだったが、それだけが理由ではない。
脱いだばかりのダウンジャケットにもう一度手を伸ばすべきか逡巡しながら、真っ直ぐに張った先輩の背筋を目線でなぞる。それは弓引きとしてではなく、夜のバイト先で見せるバーテンダーとしての立ち姿だった。
そっと傾けられたケトルの注ぎ口から、漏斗型のフィルターに細く湯が落ちる。家具らしき家具のない長方体の空間に、珈琲の香りが伸びやかに満ちていく。余った湯は、二つ並んだロンググラスを温めるのに使われる。
バイト先で幾度となく目にしたが、緩急をつけた所作にはそこはかとない華があって否応無く視線が惹きつけられる。
「勘違いして欲しくないねんけど、皮肉で言うたんちゃうで。大事にしてやってくれ」
「わかってます」
「葵はな、天才やねん」
「……何の話ですか」
「気付いてるか。最近の師範、アイツに指導らしき指導をしてへん」
「言われてみれば、そうかも知れません」
「もう俺でも届かへん」
そう呟きながら、軽量カップと小さな泡立て器を後ろ手に渡される。俺は床に直置きされた一人暮らし用の冷蔵庫から生クリームの紙パックを取り出して、それを軽く撹拌する。
グラスの底に滑らせた角砂糖に淹れたての珈琲が注がれて、あっという間に溶けて消えた。先輩の筋張った左手が床に並ぶ木箱の一つに伸びて、淡い琥珀色のボトルを無造作に取り出す。アイリッシュウイスキーを代表する銘柄の一つ、タラモア・デューをたっぷりと落とした後に、俺が緩くホイップした生クリームを浮かばせて仕上げる。
ロンググラスを掲げる指先に、アイリッシュ・コーヒーの熱がじんと伝わる。カチンとグラスを合わせて傾けるとクリームの甘味を帯びた冷たさと、濃厚な珈琲の熱い苦みのコントラストが舌先に刺さる。目蓋を閉じて一息吐くと、ウイスキーの大麦が滑らかな薫りとなって口内を抜けていった。
「届かないって、どういう意味ですか」
「そのままや。葵の弦音、あれがどんな境地で鳴ってるのか、俺にはもうわからへん」
「ただ違うタイプの弓引きっていうだけでしょう」
「そう感じるのはな、お前にもその境地が見えてるからや。まぁ、俺はもう引退したからええけどな」
「弓、辞めてしまうんですか」
「あぁ、ちょうどおもろいモノに出会えたしな」
先輩の長い指先が、グラスを持ち上げて揺らす。濃暗色のベースを侵していたクリームの白濁が、グラスの内側にどろりとマーブル模様を描いた。
「葵さんといれば、また会えますか」
「まぁ、双子やしな。でも、その理由で葵を選ぶって言うなら、兄としては許せへんぞ」
「どの口が言うんですか、いまさら」
気が付くと俺の右手が梓先輩の胸倉を掴んでいた。それを払おうともせず、揺れる液体をこぼさない様にグラスを気遣う戯けた眼差し。この人は心底、疎ましい。肋骨の内でウイスキーが拍動に追い打ちを掛ける。
胸倉を掴んだ腕に力を込めて、俺よりも上背で勝る長身を引き寄せた。接触した額同士が鈍い音を立てたが、迸る血潮が運ぶアルコールに痛覚が麻痺しつつある。
にわかに輪郭を失っていく五感を欺いて、触れ合う舌先に角砂糖の甘味だけが執拗に刺さって離れなかった。