六節 弦音
ゴールデンウィーク明けのキャンパス。四月に入学した新入生達もそれぞれに落ち着く場所を見つけて、大学は平時の静けさを取り戻しつつある。
講義の終了を告げる教授の声を背に聞きながら教室を出た。午後の講義が終わると、夜のバイトまでの空き時間を道場で弓を引いて過ごす。俺は大学生活の大半を、そうやって過ごしていた。擦れ違う友人に軽く挨拶しながら、足早にキャンパスを横切る。初夏の風に誘われて、俺の前を先導する様に数匹の紋黄蝶がヒラヒラと舞う。
安全性を考慮してのことだろう、弓道場は一般の学生があまり足を向けない敷地の外縁部に位置していた。道場に近付くにつれて、部員達の声援が耳に届く。試合中の掛け声は慎む慣習だが、大学弓道の普段の稽古風景はとても賑やかだ。
「大前、一本!」
道場の玄関で脱いだスニーカーを揃えていると、一際澄んだ女性の声が凛と響く。葵先輩だ。「大前」とは道場の上座に据えられた神前に最も近い、先頭の立ち位置を指す。そこで部員の誰かが弓を打ち起こしたのだろう。
控え室のロッカーから稽古着を取り出し、上衣を羽織って帯を手早く締める。低い弦音に続いて鏃が的紙を破る小気味良い音が響いた。
「ぃよぉおおっし!!」
部員の矢が的中すると、射位に入っていない他の部員が「よし!」と声を掛ける。それらに混ざって、一段鋭い叫声が道場に迸った。葵先輩の双子の兄、梓先輩も道場にいるらしい。その声を耳にしただけで、不覚にも胸の内が酷く疼き始める。早く射位に出たい。あの人と並んで、俺も弓を引きたい……
手許も見ずに袴の帯を素早く締め、道場への廊下を摺り足で進む。敷居の手前で停止して左足から入場、神前に一礼してから道場内の部員に小声で挨拶する。
逸る気持ちを抑えて道場内をいったん素通りすると、下座の出入口から道場脇に出た。そこには「巻藁」と呼ばれる藁を直径約50センチメートル、奥行き80センチメートル程の俵状に束ねた物が、台座に据えられて並んでいる。
練習用の弓矢を取って、巻藁から2メートル程の距離に立つ。射法八節をなぞり、巻藁の中心に向かって矢を放った。弓の感触を確かめながら、同じ動作を数回繰り返す。早朝練習からさほど時間が経っていないこともあって、手応えは悪くない。
道場へ戻ろうと振り返ると、出入口で腕を組んでこちらを見つめる梓先輩と目が合った。上背では俺の方が僅かに勝るが、十代半ばから弓に触れてきたという身体がしなやかな筋肉を纏って静かに佇んでいる。
初夏の風に揺れる前髪の下で、葵先輩と同じ淡褐色の眼光が奇妙に鋭い。
「主将、お疲れ様です」
「あぁ」
「あの、どうかしましたか」
「いや、なんでもない。いまから試合形式で立を組む。入れるか」
「俺、さっき来たばかりですよ」
「今朝も講義前に一人で引いてたんやろ。落ち、任せるぞ」
「落ち」とは「大前」の真逆、つまり最後尾の立ち位置を指す。自然、立の最後を締め括る役割で、時には落ちの的中次第で試合の勝敗が決する事もある。
俺が肩を竦めて了承の意を伝えると、梓先輩が指示を飛ばし始めた。一回生の集団が的場に溜まった矢の回収に走り、そのうち二人はそのまま的場に留まって、矢の的中判定の為に左右の観的小屋に入る。
弓立ての前に立つと、座卓で的中記録簿に視線を落とす葵先輩が目に止まった。
「先輩、立に入らないんですか」
「ん、なんか風邪っぽくてさ。梓に今日はやめとけって言われてん。ところで、自分……」
こちらを見上げる双眸には夕陽が映り込んで、橙色の華が無邪気に咲いている。
「ここしばらく、ずっと中ってるやん。何か掴んだ?」
「さぁ…… 一時期悩みましたけど、最近はそういう事も考えない様になってきました」
「へぇ、生意気。そしたら、見ててあげるわ」
挑発的な弧に歪む、薄い唇。
矢立てから自分の矢を四本選んで、先端の鏃を右手に握り込む。大前に立つ梓先輩に倣って、的前に足を運んだ。
俺の正面には、立の殿に位置する落ちの的。眼前に伸びる矢道の青さをぼんやり眺めながら、葵先輩のさっきの言葉を自問する。以前の様に気負うことをやめた俺は、何かを掴んだのだろうか。むしろ、掴んでいた何かを手放した結果にも思える。
明確な回答は浮かばないが、強いて言うなら最近は的が近付いてくる奇妙な感覚があった。
一組目の立を構成する四人が、的前に揃って並ぶ。大前でそれを横目に確認した梓先輩が的に向かって一礼して、摺り足で射位へ進み出た。二的以降も順次それに倣い、跪座の姿勢で目の前に立てた弓に矢を番える。
そう言えば、さっき道場の入り口まで俺を先導してくれた紋黄蝶は、どこへ行ったのだろう。間違えて矢道に紛れ込まなければ良いけれど。かつては命を奪う道具であった弓矢を手にしながら、蝶の心配をしている自分の滑稽さにふと気付く。「的に向かう時は雑念を捨てて無心になれ」とよく言われるが、なかなかそうはいかない。いや、雑念があってこそ人として自然なのでは……
取り留めない思考に沈んでいると、大前の梓先輩が弓を捧げ持って立ち上がった。左半身に構えた的に対して前後に立ち位置を探ってから、両足を肩幅よりやや広く踏み開く。
前傾姿勢を取るにつれて、馬乗り袴越しに引き締まった下半身のシルエットが浮かび上がる。いまこの瞬間、全ての部員の注視を一身に受けるその背中はあまりにも大きく、しかし、しなやかな筋肉に包まれた両腕はあくまで軽やかに弓矢を高く掲げる。
流水を想わせる滑らかさで左腕が前方に滑り出て、弓を三分ほど引き分ける。そのあまりにも弓に馴染み過ぎた立ち姿に、一人静かに戦慄する。それは弓を引くための体躯以外の何物でもなかった。両肩がゆっくりと沈んでいく。それにつれて左右の肩甲骨が背骨に寄せられていくのが、上衣越しに錯視される。
的を捉える横顔は眼差し鋭く、その視線と矢を一線上に結ぼうとしている。いまや十全に引き絞られた弓、引き手はその均衡のさらに向こう側へと手を伸ばす。破綻の刹那にのみ表出する真円に至らんと、ただ己自身を射抜こうとするその緊張の最中にあって。
俺には見えた。梓先輩の口元に不意に浮かぶ、微かな笑み。
もしこの世に弓の神様がいるとしたら、いまこの瞬間、梓先輩の弓に舞い降りているに違いない。
言葉にもならないそんな直感に俺が身じろぎした刹那、弦を支えていた右手が後方に翻り、残像に遅れて甲高い音圧が道場内に響く。
俺の鼓膜はただその音色のみに耽溺して、矢道に疾る風切り音を遠くに聴く。その行く末など確かめるまでもない。この無縫の射に、的を外す結末などそもそも存在しない。
この時、弦音は弦から出ずるのではなく、引き手の血肉を媒介に骨が奏でる辛苦の賛歌だった。