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五節 黒猫亭

 赤煉瓦を敷き詰めた路地の奥に、白い外壁の建物が小ぢんまりと見える。


 一段高くなったアプローチの先には年季の入った木製の扉。その上部にあしらわれた半月形のステンドガラスから、店内の灯りが光の帯となって地面に伸びている。エントランスの脇に掲げられた黒板には「洋食 黒猫亭」という店名と猫の意匠、そして今日のディナーメニューが白墨の手書き文字で記されていた。



「行きたい店って、ここだったんですか」


「そう。でも、ここの店長な、去年亡くなったんよ」


「え、じゃあ……?」


「いまは息子さん夫婦がやってはる」


「それは知りませんでした」


「店長、自分の顔見たいって言うてはったで」


「……そうですか」


「昔、二人でよう来たね。でも、最近は顔出してないんやろ、自分」


「言われてみれば、そうかも。どうしてだろう」


「……誰かさんのことしか考えてないからな」



 聞き間違いかと思って振り向くと、黒板のメニューに顔を向けたままこちらに視線を流す彼女がいた。くっきりと引かれた眉の下で、勝ち気な瞳が薄闇を湛えている。


 言葉を継げないままに見つめ返していると、彼女の方から先に視線を外した。俺に背中を見せながら、短くなった髪を手櫛で流す。路地から振り仰ぐ狭い夜空に、昼下がりから続く小雨はいつの間にか止んでいた。



 外観と同じく白を基調とした店内には厨房と向かい合う形のカウンター席が五つ、そしてゆったりと四人が掛けられるウッドテーブルが二つ。後者はどちらも先客で埋まっている。


 黒いウェイターエプロン姿の女性が微笑みを浮かべながら、コートと荷物を手際良く預かってくれた。この店で初めて見掛ける人だったが、あおいさんは面識があるらしく挨拶を交わしている。店内の内装はほぼ記憶のままだったが、厨房の空調や調理器具が真新しいことに気付く。息子さん夫婦が継ぐにあたって、新調したのだろうか。


 手持ち無沙汰な俺が店内を見回していると、厨房の奥に立つシェフらしき男性が会釈してくれた。そこはかつて、先代店長の指定ポジション。カウンター越しに客に冗談を飛ばして大声で笑い、奥さんによくたしなめられていたヒゲ面を思い出す。この人が息子さんなのだとしたら、父親を反面教師にした寡黙なタイプなのかも知れない。



 勧められるままにカウンター席に並んで着く。手渡された品書きにはほぼ記憶のままのメニューが並んでいて、懐かしさに思わず目を細めた。俺は牡蠣カキフライ定食、彼女はビーフタンシチューとオムライスのセットをオーダーする。



「牡蠣フライ、頼むと思ったわ」


「ちょうど旬ですから。分けてあげますよ、一つだけ」


「いや、美味しいおかずはもっと積極的にシェアしよ。女子部主将の命令やから、これ」



 似た言葉を何処かで耳にした気がする。ゆっくりと過去に向き始めた俺の意識は、奥さんの「赤パプリカのポタージュです」という言葉に引き戻された。目の前にコトリと置かれた白いスープ皿に、二人で両手を合わせる。


 仄かに赤味を帯びた液体に、そっとスプーンを沈める彼女。その仕草を視界の隅に捉えながら、そう言えばこの人には食事の時だけ見せる()があったと思い当たる。薄く開かれた唇にスプーンの端が押し当てられて、淡褐色の瞳に目蓋が静かに落ちた。食べ物を口に含む時に目を閉じるのは、本人曰く「美味しい物をちゃんと味わうため」とのこと。


 ほんの一秒にも満たないその一連の仕草に、学生時代の記憶が重なる。初めて二人で食事に行った頃はまだ弓道部の先輩と後輩の関係でしかなくて、あれは誘うというよりほぼ命令だった……



「なぁ、そんなに見られると食べにくいねんけど」


「あ、すみません」


「私に見とれてた?」


「違います。ちょっと昔のことを思い出してて」


「いや、そこは嘘でも『はい』って言うとこやろ。モテへんで」


「ここの店長には、よくからかわれましたね。『美女と野獣』って」


「私はそのままとして、自分は無駄に見た目イカついからな。黙って立ってたら怖いし。老け顔やし」


「酷いです。せめて大人っぽいって言ってくださいよ」


「まぁ、昔のことはさておき。ほら、スープ冷めるで」



 促されるままにスプーンを手に取り、ポタージュを一口含む。パプリカの甘味がトロリと舌に優しく、それでいて滑らかに喉を落ちていく。暫時、二人で黙々とスプーンを動かす。


 やがてスープ皿が下げられて、数種類の焼き立て自家製パンとメイン料理がそれぞれの前に置かれた。俺の牡蠣フライに目を輝かせる彼女。眼差しがやや上目遣いになっているが、自覚があるのだろうか。仕方なく軽く頷き返すとフォークが伸びてきて、たっぷりとタルタルソースを絡めた一際大きな牡蠣がさらわれていった。


 再び目蓋を落として、白い前歯を衣に沈める彼女。黒いひだに縁取られた淡灰色の断面から艶やかな貝汁がしたたり、柔らかな湯気が立ち昇った。そのまま恍惚とした表情を浮かべて天井を仰ぐ彼女。この人は食べるのが本当に好きで、美味しそうに食事を頬張る姿をいつも見せてくれた。


 ふと視線を前に向けると、厨房に立つシェフと目が合う。唇をクッと歪めて顔を逸らしてしまったが、まんざらでもないのだろう。白いコックコートを纏った肉厚な背中に先代店長の姿が不意に重なって、心の中で静かに手を合わせる。



「何してんの。遠慮せんと食べや。めっちゃ美味しいで、その牡蠣フライ」



 小首を傾げてこちらを窺う彼女に促されて、俺もフォークに手を伸ばした。



 料理は先代のメニューに随所で工夫が加えられていて、地元の住人が通う隠れた名店といった風情。デザートは抹茶シャーベット。洋食の濃厚な後味が、清涼な苦味に塗り替えられていく。


 隣の席では、珈琲にミルクを落とした彼女がカップに視線を注いでいた。時間と共に浮かび上がるマーブル模様を見るのが好きだと話していたが、これはいつの記憶だろうか。たしか、稽古の後にジュースを買いに行ったら、学生食堂に袴姿の彼女がいて……



「なぁ、なんか物思いに耽り過ぎなんちゃう、今日の自分」


「あ、はい。すみません」


「せっかく会いに来たったのに。心ここにあらずやな」


「……覚えてますか。昔、先輩が袴姿で講義に現れたら、外国人の講師が興味津々で」


「あぁ、第三外国語のグレゴリオ、危うくみんなの前で脱がされるところやった」


「俺は危うく殴り掛かるところでしたよ」


「せやな。昔の自分はなんかよう気使ってくれてたな」


「先輩がモテ過ぎるんです」


「自分にはフラれたけどな」



 冗談めかした口調で唄う様に言いながら、シャーベットを口に含む彼女。



「……フッた覚えはないです」


「双子の兄やで。兄妹喧嘩して欲しかったん?」


「わかりません」


「まぁ、それも今は宙ぶらりんなままやけど」



 店名にちなんだ猫の彫りが施されたデザートスプーンを、手入れされた指先でもてあそぶ彼女。


 ふわりふわりと宙を漂ったそれはやがて、松葉色の切子グラスに舞い降りて凛と澄んだ音を奏でた。

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