四節 センター街
車を駐車場に預けて、JR三ノ宮駅を南へ。
横断歩道で信号待ちしていると、懐かしいメロディが耳に届いた。交差点の向かい角のゲームセンターで、UFOキャッチャーが繰り返し奏でる電子音。あまり客が入っていそうにないのに、まだ営業を続けているのか。
そう言えば、この横断歩道を彼女と最後に渡ったのはいつだったろう。チラリと隣を見やると、濃色のウェリントンフレーム越しに淡いトーンの瞳と視線が合った。
「なぁ、覚えてる? あのゲーセンで、私が欲しがったキーホルダー取ってくれたん」
「……そんなこともありましたっけ」
LED信号が無機質な青に切り替わり、彼女が横断歩道に踏み出す。足捌きに合わせてタータンチェックのロングスカートを緩やかに揺らしながら、俺の少し前を行く。
昔から、不思議に静かな歩き方の人だった。身長に比してやや長めの腕をしなやかに振って、足を滑らせる。かと言って重心が低い訳ではなく、長くしなやかな脚に支えられた上半身はいつも空から呼ばれているみたいに真っ直ぐ伸びていた。豊かな胸、張り出した肩に長い首が艶やかな印象をさらに深めて、その上に小さく掲げられた相貌が端整だった。
乳白色の耳朶を穿つ飾り鎖が、俺の眼前で銀色に揺れている。片側には微細な細工の金属柱、そして反対側には小振りな涙滴が左右それぞれに垂れていた。神戸の町並みを照らす街灯を反射して鈍く閃くそれが、濃灰色の歪なパールだということは俺の記憶に刻まれている。
視線に気付いた彼女がこちらを振り向いて、横顔を傾げて問う。記憶の向こうに若い疵痕を見ていた俺は、咄嗟に何気ない表情を装って適当な言葉を探る。
「眼鏡、いつから掛けてるんですか」
「ん、これはつい最近かな。気分変えたくて。似合ってるやろ」
「コンタクトやめたんですね」
「もう弓に触ってないから。弦で眼鏡を払う心配とか、せんでええし」
フレームのリムに指先を添えて、微笑む彼女は自然だった。どんな言葉を返せば良いのかわからず、かと言って曖昧な態度を取るのは失礼な気がして、ただ口元を引き締めて沈黙する。センター街の看板を潜ってアーケードに入った。
アパレルショップをいくつか覗きながら、ゆっくりと元町方面へ。昔と変わらないセレクトショップもあったが、ファストファッション系の路面店がやはり目立つ。瀟洒なディスプレイに足を止めて店内を窺う華奢な背中に声を掛けた。
「背、また伸びたんじゃないですか」
「そんな訳ないやん。自分、私のこと何歳やと思ってんのよ」
「アラサー」
「うわ…… 凹むわ。ってか、背高いのは昔からやし。今更なに言うてんの」
「いや、あの、そうじゃなくて」
耳の横で掌をパタパタと泳がせる俺の仕草に、切れ長の瞳を細めて訝しげな眼差しを返す彼女。
「なんやの。はっきり言うて」
「要するに、なかなか似合ってるって言いたかったんです。その、短い髪」
もっと他の言い方ないのか、俺。だが、それを聴いた彼女は一秒後に破顔して、ピョンと小さく跳ねる。しまった。こんなに喜ばせるつもりはなかったのに。
「そう? やっぱり? どう似合ってるか、お姉さんにもうちょい詳しく言うてみ」
「えっと、顔がですね、とても小さく見えますよ」
「……いや、ただ小さいだけちゃうし」
「あぁ、その、まぁ、綺麗だとも思います。相変わらず目立ってますし」
「え、なんて。聞こえへんかった。もう一回言って?」
「その見事な鷲鼻がさらに強調されて、凄く目を引きます」
「……はぁ? 喧嘩売ってんの、自分」
満面の笑みで穏やかならざる台詞を述べる彼女。
休日の部活帰りだろうか、数人の男子高校生が擦れ違いざまに彼女を振り向く。と同時に大きく腕を振るった彼女の掌がコート越しに俺の背を打ち、大きな音を立てた。慌てて視線を逸らした高校生達が、肩を竦めながら去って行く。
そうだった。弓を引いていなくても、この人の容姿は耳目を集めてしまう。隣を歩き始めた頃、通行人の視線にいつも晒されている様な気がしていつも緊張していたのを思い出す。
「わかった。ちょっと駅の方に戻ろか。ほら、美味しいアイスクリーム屋さん、あったやん。久し振りにあそこ行こ。奢ってな」
「あの店、なくなりましたよ」
「え、なんで」
「さぁ…… 外資だから採算取れないとなったらドライな判断するんじゃないですか」
「アイス、食べたかったのに」
「相変わらず寒い季節にアイス食べるんですね。何処の国の習慣ですか」
「マイ・ルール。デートの時だけ」
「……レモン味のアイスがあるのは当時、あの店だけでしたね。俺も残念です」
「よし、腕組もか。それで許したるわ」
「どうしてそうなるんですか。近いです、顔。下がってください」
困り顔を必死に繕うオレを楽しそうに見ながら、ニットに包まれた彼女の腕が伸びてきた。子供っぽい仕草で悪戯を仕掛けるその表情は、昔と何一つ変わらない。身を躱して抵抗すると、やがて狙い澄ませた動きで左の手首を取られる。
社会人になってからも時間の許す限り弓を引いてきた俺の左手は、握り革に触れる箇所が硬化している。指先でその感触をなぞりながら、彼女が呟く。
「やっぱり弓引きの手やね」
「梓先輩の弓、誰かが引かないと傷んでしまいますから」
「ありがとう。でも……」
途端、歯切れの良い関西弁は鳴りを潜めて、彼女の歩みが緩やかになる。
「なぁ、梓、帰って来るん?」
懐かしい口調だった。大学に入って初めて会った頃みたいに、気持ちを隠さない彼女がいた。いくつかの記憶が脳裏を過ぎる。女子部の主将として弓を引く、堂々とした背中。夏の合宿で打ち上げ花火に見入る、ほっそりとした横顔。そして、その横に和装で微笑みながら佇む双子の兄、梓先輩……
不意に脚がもつれて、蹴躓いた。俺の左手を取っていた彼女も、横で驚いた声を挙げる。彼女を巻き込んで倒れ込まない様に、咄嗟に右腕を伸ばして細い上半身を支えた。それは引き締まった筋肉を纏ったかつてのしなやかな彼女ではなく、大人の女の柔らかな量感だった。少なからぬ戸惑いを覚えてすぐに手を離す。
「危なかった。そんなブーツ履いてるからですよ」
「いや、ボーっとしてたのは自分やん」
「袴に雪駄ならこんな不覚は取らなかったのに」
「そんな格好で並んでセンター街歩いてたら、余計に目立つやん」
「目立ってる自覚はあるんですね」
「……私だって、別に目立ちたくて目立ってるわけちゃうし」
傍らに並ぶ文具店のショーウィンドウに視線を逃がして、唇を尖らせる横顔。あぁ、またやってしまったのか。一瞬の後ろめたさがもたらした隙を突いて、柔らかい香りが不意に身を寄せてきた。
慌てるオレの腕を絡め取った彼女は、急に方向転換したかと思うとそのまま店舗の隙間に伸びる細い路地に入っていく。その先の空間は時を止めたかの様に薄暗く、当時の佇まいのまま。
そして、突き当たりの袋小路では、記憶のままの懐かしい店が柔らかな灯りを地面に投げ掛けていた。