三節 阪神高速
誰もいない更衣室。
袴を解いて畳に落とし、緩めた帯を手許に巻き取りながら折り畳む。時折、道場から誰かの弦音が聴こえて、矢が的に中れば鏃が的紙を穿つ音が、抜ければ的場の土に刺さる音がその後に続く。
俺自身、中りへの執着を失って久しかった。その理由を探ると、あの人といつも一緒に弓を引いていた学生時代に行き着く。
ーーーーーー
「最近、思うねん。弓を引くってのは、結局、自分を越え続けていくことなんやって」
「どうしたんですか、急に真面目な顔して。気持ち悪いですよ」
「あのな、これでも一応、この弓道部の主将やから。もっと敬ってええねんで」
「まぁ、そうですけど」
「そもそも、矢で的を射るって考えがちょっと烏滸がましいんちゃうかな…… 矢が的に中ってる結果から逆算するっていうか、弓が引いて欲しがってる動きをなぞって最後に弦音を鳴らす。人間の努力でどうにか出来るのは、所詮その辺までって気がするねん」
「弦音を……鳴らす? 俺にはよくわかりません」
「矢が弦を離れたら、その後どう飛ぶかはもうそいつに任せるしかないやろ。ほら、あれや、人事を尽くして…… なんやっけ」
「天命を待つ、ですか」
「そう、それ! さすが我が弓道部が誇るカリスマ会計係やな、自分。よし、メシ奢ったろ」
「会計係は関係ないですけど…… それに、奢るってどうせまた駅前のファミレスでサラダバーでしょう」
「正解! でもな、野菜だけちゃうぞ。なんと、海草も食べ放題や。わかめ、好きやろ?」
「いえ、全然。それより、もう少し引きたいんですけど」
「葵も呼ぼか。どうせその辺におるやろ、あいつも」
「聞いてないし…… 葵先輩なら、稽古の後に図書館行くって言ってましたよ。レポート仕上げるって」
「よし、優秀な我が妹を呼んで来い。全力疾走や。これ、主将命令な」
「袴って走りにくいからイヤですよ。携帯鳴らせば良いじゃないですか」
「無理。オレの携帯、料金滞納でいま止められてるし」
「え、またですか。この前の練習試合の時も連絡つかなくてヒヤヒヤしたんですから。勘弁してくださいよ……」
ーーーーーー
手洗いで顔を濯いで、ふと視線を上げた。鏡に映る自分の顔からいつの間にか、学生時代の気怠い弛緩が抜け落ちているのを認める。
いまの俺の濁った弦音を聴いたら、あの人は何て言うだろうか……
いつになく上機嫌な師範に挨拶をして、弓道場を辞した。俺と葵先輩を前に何か勘違いをしている様子だったが、一々否定するのも大人気ない。裏の駐車場へ向かう俺の少し後ろを、レザーブーツが砂利を踏む音が柔らかく付いてくる。
隣接する神社で、ちょうど社務所の戸締まりをしていた宮司と目が合ったので、足を止めて会釈した。「うわ、ちょっ、急に止まりなや」という声とともに背中を押され、二人でもつれながらたたらを踏む。微笑みを浮かべた宮司が、黙礼を返してくれた。
夕刻に差し掛かった六甲、鎮守の森。にわかに冷たさを増した風に梢が揺れている。クスノキの古木を回り込んで濃銀色のツーシーターが視界に入ると、軽やかだった彼女の足音が徐々に速度を失った。助手席側に立って振り返る。
黄昏の明かりをまともに受けた彼女の相貌があまりにも剥き出しで、俺は視線をそっと地面に落とした。
「……そっか。今は君が乗ってくれてるんやね、この車」
「はい。車と竹弓は使わないと傷むから頼むって、お兄さん…… 梓先輩が」
「そうよね。ありがと…… って、この低さ、久し振りやな。相変わらず乗りにくいわ」
ロングスカートの裾を捌きながら苦笑する彼女。初めて会った頃と同じ、淡褐色に澄んだ瞳に視線で合図してドアを閉める。運転席に身を滑らせてキーを捻ると、窮屈な車内に自然吸気エンジンの素直なアイドリングが満ちる。
「男の人って、いくつになっても車好きやんね。なんでなん?」
「さぁ…… 理屈じゃないと思いますけど」
「実家に来た時、ガレージで盛り上がってたもんね。父と兄と君の三人で」
「あぁ、だってあれはたった10台しか生産されなかったモデルで……」
「私をほったらかしにして」
「すみません」
「やっぱり女より男が良いんや」
「……出しますよ」
駐車場の砂埃を巻き上げない様にそっとクラッチを繋ぎ、弓道場から続く青黒い林道を幹線道路に抜ける。眼下の視界が開けて、人工的な灯りを散りばめた六甲アイランドが港に一望できた。東西に視線を振ると、斜陽に沈む神戸の街並みが静かな煌びやかさで光の帯を纏いつつある。
車内に響くのは素直な素性のエンジン音と、路面を撫でるスポーツタイヤのノイズだけ。交差点を左折する時に捉えた助手席のシルエットは、窓を向いて唇を尖らせていた。
「どこ行きますか」
「……とりあえず、三ノ宮。行きたいお店があるんよ」
溜息をそっと飲み込んで、43号線を流しながらウィンカーレバーを倒す。やがて左側に現れた高速道路の標識に鼻先を向けて、側道の緩やかなスロープへ車を進めた。商用車と一般車が入り乱れて走る、夕刻の阪神高速。本線に合流しても助手席のシルエットはだんまりを決め込んだまま、ただ前方を見やっている。
自分から勝手に来たくせに。これだからお嬢様は困る。
ツーリング帰りだろうか、アメリカンバイクの一団が賑やかな排気音を奏でながら、出口へのスロープを降りていく。ふと、前後の車の流れが途切れた瞬間を捉えてアクセルを解放すると、座席の後方で回転数を高めたエンジンが車内の沈黙を埋める。
頭上の青白い街灯が一条の線となって、背後に流れ始めた。