二節 涙滴
残心を解いて、足下に視線を落とす。
射位に持ち込んだ矢はすべて的場に吸い込まれて、もう残っていなかった。一礼して射位から下がる俺に、道場内から控えめな拍手が向けられる。弓立にことりと弓を預け、膝をついて右手のかけを外した。
壁時計に視線を向けると、いつの間にか夕刻が近い。
道場の脇に回って雪駄に足を通し、射位の様子を窺う。的前に誰も立っていないことを視認してから、両手を掲げて二拍。道場内からの「どうぞ」という声を聞き、的場へ向かう。
弓道の的は、直径36センチ。丸い木枠に白地の紙を張ったもので、中央に直径12センチの黒点が描かれたこれは「星的」と呼ばれている。オレが放った四本の矢はいずれも黒点付近を捉えていたが、その中心を穿つには至っていない。
他の的にも足を止めて素早く矢を回収すると、それらを束ねて小脇に抱える。道場の脇に戻って、矢の先端に付着した的場の土を布巾で拭う。一本一本、丁寧に。道場から談笑している声が届いた。誰かがお茶を淹れてくれたのだろう。社会人弓道は競技者の年齢層が高く、雰囲気も和やかだ。
回収した矢を全て矢立に戻し、弓立から練習用の軽い弓を手に取る。矢は番えずに素引きで弓を構え、射法八節をなぞる。なぜだ。的の黒点を射貫くはずの矢が、いずれも僅かに逸れていた。弓を引き絞った状態で、静止の中にその軌道の理由を求める。
どうして。いつから、俺にはあの弦音が聴こえないのだろう。
ふと視線を感じた。弓を戻して振り向くと、道場の入口に立つ女性と目が合う。ほっそりとしたその佇まいに往時の袴姿を錯視した。と同時に、僅かな胸騒ぎがあった。だが、俺がその原因に思い当たるより前に、彼女はロングスカートに隠れた片脚をひょいと掲げて空中で静止させる。
その滑稽な仕草に緩みそうになる口許を慌てて引き締める。稽古中に感情を露にすることは慎むべし、とされている。首を傾げて意図するところを問うと、彼女は大きく見開いた瞳をぐるりと回してからスカートの裾を大胆に摘み上げる。そこには白く透けた素足があった。
あぁ、そういうことか。神前では白足袋の着用が求められる。彼女は道場に入って来られないのだ。
擦れ違う面々に黙礼しつつ上座へ足を運び、最後に神前に一礼して道場を辞する。
控室に向かうと、師範に菓子折りを手渡しながら談笑する彼女がいた。戦争を生き延びた世代らしく、学生時代の俺達には厳しい礼法を求めた師範だったが、いまや社会人になった孫娘を迎える好々爺の如く眉尻を下げている。その微笑ましい光景に頬を緩めながら、下座に静かに跪坐して控える。
世間話に興じる二人をしばらく眺めていると、気を利かせた事務の女性が煎茶を三つ、盆に載せて運んできてくれた。礼を述べながらそれを受け取って、師範と彼女の前に茶菓を添えて供する。俺の存在にたったいま気付いたかの様なさりげなさで、彼女が小声で告げた。
「見事な射でした」
その一言に師範が唇を歪めて、顎先を俺に向ける。
「この男にいい加減、段位を取る様に言ってくれんか。儂がいくら言っても耳を貸さん。困ったもんだ」
「師範、彼にも思う所がある様ですから……」
「お前がそうやっていつまでも手綱を握らないから、この男の射は危なっかしいままなんだ。そもそも男と女っていうのはだな……」
二人で曖昧な表情を作って、師範の言葉をやり過ごす。間もなく口角泡を飛ばして男女の理を論じ始めた師範に、折り目正しく対峙する彼女。凛と背筋を伸ばしたその半身は深く濁ったボルドーのカシミアニットに包まれ、ゆったりと開いた襟元に弧を描く鎖骨がしなやかだった。だが、やや張り出し気味の肩と引き締まった胸元からは、彼女もかつて弓に触れていた面影が窺える。
いや、実際には「弓に触れていた」どころではない。彼女の名はその双子の兄と共に、弓道部を擁する県内の大学で何かと噂に上ることが多かった。一つは冴え渡るその弦音、いま一つは兄妹揃って衆目を集めるその整った容姿ゆえに。
二十代も後半に差し掛かった目の前の彼女は、若き日そのままの端正な相貌に俺の知らない色香を滲ませている。そして、弓の弦に払われて傷むからと学生時代から肩の長さに揃えられていた黒髪はベリーショートに整えられて、中性的に引き締まった横顔をなお精悍に見せている。
先刻からの胸騒ぎの原因はこれだろう。二卵性とはいえ、戸惑いに目を伏せるその相貌には他でもない彼女の双子の兄が偲ばれて……
室内の温もりに赤みを帯びた耳朶に、真珠のピアスが穿たれている。歪な涙滴型のそれが俺の錯視を窘めるかの様に輝いた時、先程の事務の女性が来客を告げた。袴の裾を捌いて師範が立ち去ると、途端に控室が静まり返る。こちらに視線を向けることなく、煎茶に手を伸ばす彼女。
沈黙に屈して先に口を開くのは、いつも俺だった。
「先輩」
「ひさしぶりやね」
「神戸に来るなら、事前に知らせてくれたら良かったのに」
「君に会うつもり、なかってんよ」
そう告げて微笑む相貌は不思議に澄んでいて、真意を読み取らせない。
「まだ、引くん?」
「いえ、今日はそろそろ上がろうと思っていたところです」
「そう。なら良かった。私、お腹減ってるねん」