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一節 射位

 晩秋の弓道場に小雨が降り注ぎ、矢道の芝生を青黒く濡らしている。


 一礼して、射位に歩を進ませた。的までの距離は28メートル。


 半身に構え、両足を踏み開く。立ち位置を探る足裏に、擦り減った床板の感触が荒い。足袋たび越しにその摩擦を踏み固めて、下半身の筋肉を引き絞る。体重はやや爪先寄りの前傾姿勢。視界を閉ざして、息吹を深く三度。平時よりも深く、緩やかに、丹田に息を降ろす。袴の帯が腰骨をしなやかに締め付けた。


 弦につがえた矢に右手を伸ばす。鹿革のかけ(ヽヽ)越しに弦を親指の根本に引っ掛け、その上から中指、人差し指を軽く添える。次に左手。人差し指と親指の股を直角に開いて弓に押し付け、小指、薬指、中指の順で握り革に絡み付けて手の内を固める。弓矢をたずさえる両腕が、緩やかな弧を描いている。



 雨音が、秋風の感触が、芝生の濡れた匂いが急激に遠ざかり、代わりに自らの呼吸と骨格が強く意識される。いま此の時より、此の世を構成するのは此岸の()と彼岸の()のみ。


 いつも目蓋の裏に浮かぶ情景は、早朝の凪いだ湖面。武具としての意志に委ねると、無風の内に漂う水蒸気にならって弓が宙空に浮かび上がる。それに追従して引き上げられていく両腕が、まるで自分の物ではないかの様に感じられた。左腕の肘が伸びるにつれて掌内の弓に捻りが加わり、拮抗する右手がこめかみの斜め上に滞空する。



 雨膜の向こうに浮かぶ的が白い。


 その無垢を希求して止まないのが左手の本能なら、抑制しいさめる右手は理性なのか。わからない。何万本と矢数を掛けてきたのに、なぜ今更こんな事を自問しているのか。それもわからない。いつも悩んでばかりだ。


 遠い昔の記憶。それが弓の道だと誰かがうそぶいた気もするが、射に雑念が映らない様にいまは思考を棄却する。胸を左右に開くにつれてきしり、圧し広げられていく弓。破綻を抑えながら上半身を割り込ませ、肩甲骨を降ろしていく。


 いまや口唇の高さにまで降りてきた矢軸は、左手と右手の均衡の先に的を一筋に結びつつある。さらに水準を落とした意識に辛うじて感じられるのは、呼吸、心音、そして、骨の音。後方に遠ざかった右手に矢の存在は既になく、止め処なく伸びゆく左手が掴まんとするのは弓越しの的。


 すなわち、此の身はただ弓を引き絞るために弓の一部と化して。

 我を捨てたこの境地に、唯一つ求めることが許されるならば。


 神様、どうかあの弦音をもう一度……



 弓の陰に身を隠した新月の狙い。無垢なる左腕が遂にそこに至るかと錯覚した刹那。木の葉の先端に溜まった朝露が如く、堪え兼ねた右手の親指から弦が滑りこぼれる。離れの瞬間。


 緊張と均衡の破断が乾いた音を奏でて、俺の右頬に一陣の風が疾った。

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