8
大富豪さながらのデルギア邸宅に戻ると、あの噴水のある玄関広間の金のソファーに父ハロルドが、幹部のデレクさんとマリオさんと一緒に待っていた。
「グラナドート……」
優しく目を細めて、安堵した笑みを零すハロルドが立ち上がる。
「……ご心配、おかけしてすみません」
「無事でよかった……おかえり」
戸惑いがちに謝ると、そっと抱き締められた。まだ心配してくれたことを疑ってしまう娘の帰りを、静かに喜んでくれている。
「ただいま……」
私は勇気を振り絞って、答えた。
「お父様……」
今までどう呼ぶべきか、わからなかった。曖昧にしていたけれど、敬意を示してそう呼ぶ。少々恥ずかしくて、怖くって、彼の胸に顔を押し付けた。
ハロルドは髪を撫でるように頭を撫でながら、ギュッとしてくれる。泣いてしまいそうになるけれど、流石に注目されているこんなところで堪えたい。
そこで、デビー達も戻ってきて玄関の扉をくぐった。
すぐさま、ガッとデビーもオズも頭を下げる。
「謝罪はもう結構!」
全力で謝るその前に、私は阻止した。デビーもオズもギョッとして顔を上げる。
「本当にごめんなさい、お父様。少し気晴らしに行こうと外に出たら彼らと会って……私が無用心でした。彼らも軽率でした。けれども私は無事だし、罰なら十分です。反省もしていますので、どうかこれ以上責めないでください」
ハロルドの目を見上げて、そうしてくれるかどうかを見た。ハロルドはただ仕方なそうに頷いて頭を撫でてくれる。
「殺人鬼、私が撃退しました」
「お手柄だ。流石、私の娘だ」
冗談めいて笑って見せたら、また頭を撫でられた。むずむずとするそれを堪えてから、もう休むことを伝える。
「ああ、ゆっくり休むといい。おやすみ、グラナドート」
「おやすみなさい、お父様」
ちゅっと額にキスを受けた。
「ご迷惑をおかけしてしまいすみませんでした、デレクさん、マリオさん」
「とんでもない」
「俺の倅がすみませんね」
「全くです」
階段を上がる前に、幹部二人に会釈をしておく。
デレクさんには笑顔で切り返す。本当に全くよ。
「あ、お嬢様。部屋まで送ります!」
「なーに言ってんだよ、お前は」
デビーが追いかけようとしたけれど、デレクさんが止めた。螺旋階段を使用人のエミリアと上がっていれば、デレクさんの笑い声が聞こえた。イタリア語で話し始めたけれど、内容はなんとなくわかる。私がデビーにした罰のことだろう。飛び蹴りとか平手打ちとか。
雰囲気からして、深刻にならず、よかった。ここで私が怪我をしていたのなら、笑い声なんて聞こえてこなかったかもしれない。
私をクラブに連れていく時点で彼らが叱られることは確定してたのだから、これくらいは庇っておく。
エミリアにコップ一杯分のスープを頼んだ。食欲はないけれど、眠る前にお腹に入れておいた。
入浴をすませて、純白で黒薔薇の刺繍が施された純白のベビードールを着て、すぐにベッドに倒れこんだ。大変な一日だった。
身体はふかふかのベッドの中に沈んでしまうと思えるほど重くなる。ゆっくりと眠りに落ちそうになったその時。
コンコン。
離れたドアがノックされた。浮かぶのは、セヴァリーノ。
「グラナドートお嬢」
的中して、セヴァリーノの声が聞こえた。
身体は重いし眠いから、寝たふりをして無視する。
なのに、ドアが開かれたものだからバッと起き上がった。重たそうな箱を抱えたセヴァリーノが、平然と入ってきてしまう。
「ああ、起こしてしまいましたか。すみません、お渡ししておきたいものがありまして」
あまり悪びれた様子はなく、ベッドの私の元に歩み寄る。
こっちはベビードール姿なのだけれど。どうしたらいいの。疲れのあまり慌てることもせず、私も平然にすることにした。セヴァリーノも別に気に障るような視線を送ってこないから、よしとしよう。
セヴァリーノが持ってきた箱は、ダークブラウンの木製。大きさは、私の膝からはみ出る。でも見た目よりは重くはない。
「聞きましたか? この部屋はずっとあなたのためにあった部屋です」
私のためにずっとあった部屋?
私は周りを見回す。前から私のために用意された部屋。
「ボスは離れていても、想っていたのです」
セヴァリーノの言葉に、私は目を見開く。
セヴァリーノはただ、にこりと笑みを深める。
聞こえていた。声を頼りに私の元に向かいながら、ちゃんと聞き取っていたんだ。独り善がりでバカな叫びをしっかり聞かれていた。
「毎年、あなたの誕生日にはここに手書きのメッセージを置くのです。ボスの誕生日カードは、二十三通分、この中にあります」
鍵もついていない箱が開かれた。その中には、カードの束が白いリボンで束ねられている。それは四つ分あった。
「途中から、ボスのご子息達も姉に会ってみたいと言いながら、誕生日の日は花束とともにここに置いていました。グラナドートお嬢様の安全のために、カードを贈ることもしませんでした。……けれども、確かに想っていた証がここにあります。これはあなたのものです」
ハロルドだけではなく、知りもしない腹違いの弟達までも、私の誕生日を祝ってくれていた。今まで受け取れなかったそれが、ここにある。でも私は手に取れなかった。
涙が溢れて、両手で顔を覆う。
「ここには愛があります。どうか、愛されているご自分を好きになってください」
優しく告げて、セヴァリーノは私の額に唇を重ねた。
それは私にとって奇跡のようなことだと、わかって言っているのだろうか。涙が止まらなくなる。
ずっと知らなかった私にとって、この証は奇跡だった。
全てが変わってしまうようなそんな力が、この箱の中にある。
「時間がかかってもいいのです。少しずつ、受け止めればいいのです。今まで負ってしまった傷も、ここで癒してください」
セヴァリーノは、私が泣き止むまでそばにいてくれた。
私の誕生日カードは、亡くなるまで長男が保管してくれていたらしい。そして、セヴァリーノが受け取った。
その箱は、クローゼットの中にしまってもらった。心の準備ができたら、それを手にしよう。
恥ずかしい。セヴァリーノの前で思いっきり泣いてしまった。グスンと鼻をすすって、部屋を出ていくことを待っていたのだけれど、セヴァリーノは出ていこうとしなかった。私の前で片膝をつくと、私の右手を両手で包んだ。
「私も受け入れてもらえるまで、尽くします」
一瞬、惚けた。
でもさっきの私の発言を最後まで聞いていたせいだと理解して、ガッと火をまとったかのように顔が熱くなる。
「あ、あの、セヴァリーノさん、間に受けないでくださいっ! カッとなって言っただけで、あれはっ」
「私があなたに尽くしたいのです。お嬢様」
クスリと笑って、セヴァリーノは愛おしそうに私を見つめた。
「私はグラナドートお嬢様の全てを受け止める覚悟はあります。だから、些細なことでもいいのです。なんでも、私に伝えてください」
また全てを受け止めるなんていう。
私が疑う眼差しでも向けてしまったのか、セヴァリーノは笑みを深めた。
「証明します」
疑えないくらい尽くして、証明する。
この人の言動をどこまで受け止められるだろうか。私には、全てを受け止められる自信はなかった。
「明日、街に行きましょう」
また誘ってくれたセヴァリーノに、私は口を開けそうになかったので、コクリと頭を振ってイエスと答える。
「では……マッサージをいたします」
「……なんでそうなるのですか?」
「ここに来てから外出をしていなかったお嬢様が、二階の窓から飛び降りたり、柵を越えたり、華麗な飛び蹴りを決めたのです。マッサージをしてほぐしてからの方がよく眠れるでしょうし、痛みも和らぐかと。痛む身体のまま街を案内されても、楽しくないでしょう?」
何故窓から脱走したところまで発覚しているの。
確かに運動不足の身体で無茶をしすぎた。疲れが酷いまま眠れるのは、熟睡の妨げにもなる。セヴァリーノのマッサージを受けることにしようとした。
でもちょっと待って。私はベビードール姿。別に透けていて肝心なところが見えているわけではない。寝巻きのお洒落なワンピース。ただし、かなりのミニ。素足は丸見え。胸元も、腕だって。下着同然だ。
「別にセヴァリーノさんがマッサージをしなくとも……」
「セヴァリーノ、でいいですよ」
セヴァリーノはローションを持って、ベッドに腰をかけた。なんでこの人、私のローションの場所を知っているのだろうか。
ラベンダーの匂いがしたローションを掌で広げると、セヴァリーノは私の右手からマッサージを始めた。
「いい香りですね。ラベンダーの香りで、心地いい眠りになるでしょう」
ほぐしていくように、指先まで絡めながらマッサージをしてくる。ラベンダーの香りが、私の鼻に届く。よく眠れるから、ローションはラベンダーにしている。
掌をこねるようにしてから、腕まで手を伸ばしてきた。ラベンダーの匂いを放つローションをじっくりと塗り広げる。左手も同じ。
「腕に怪我はないようですね……」
「ありませんって」
「気付かないだけであるかもしれないでしょう?」
確認のためのマッサージなのか。呆れていれば、セヴァリーノの手が足に移動した。
「んっ」
足の裏がくすぐったくって、ビクッと震える。
「痛むのですか?」
セヴァリーノが心配したから、首を振って否定した。
「くすぐったいだけです。……もういいですよ」
「いいえ、最後までマッサージをします」
ぐりっと足の裏に親指を押し付けてくるものだから、私はぐっと堪えて唇を結ぶ。他人にマッサージしてもらったことないから、悶えそうになった。
微笑んだままマッサージをするセヴァリーノに、悶える姿なんて見せたくない。足の裏マッサージをじっと耐える。
「痛いところがあったら、言ってくださいね」
そう言いながら、セヴァリーノは脹脛に触れた。足を上げられたものだから、私は下着が見えてしまいそうなベビードールの裾を押さえる。ちょっと待て、やっぱり、このマッサージをやめてくれないだろうか。
「大丈夫ですよ、グラナドートお嬢様」
クスクスと笑うセヴァリーノの大きな手が、太ももまで伸びてきたから目を丸くする。
「ただのマッサージです。身構えずに、リラックスしてください」
「……」
変な声が出てしまいそうだから、口を開けなかった。
セヴァリーノの大きな手が、太ももを揉みほぐしていく。いつからかはわからないけれど、顔はまた熱くなってしまっている。
「美しい足ですね」
セヴァリーノの手が滑り下りようとするものだから、睨んでこれ以上はやめろと訴えた。
セヴァリーノは表情を変えることなく、左足に移ってマッサージを始める。声が出ないように、また堪えた。
セヴァリーノが触れたところがじんわりと熱くなっている。ラベンダーの香りのせいか、うとうとしてしまう。
セヴァリーノの手を見張っていれば、また太ももに行き着いた。ギュッと唇を閉じて堪えている。これで終わりだ。
「うつ伏せになってください、お嬢様」
「まだするのですかっ?」
「次は背中と肩です」
セヴァリーノは、笑みで答える。
これ以上は無理だというのに、セヴァリーノはうつ伏せになるように肩を押す。無防備にうつ伏せになんてなりたくない。
「身を任せてください。マッサージ以上のことなんて、しません。……お嬢様が望まない限り」
艶かしく微笑んだセヴァリーノに、結局押し倒された。相当疲れているのだ。もう堪えるための体力に使おう。
ベッドの上でうつ伏せになって、セヴァリーノに背中を見せる。ラベンダーにまとわりつかれて、眠気がぐるぐるしていた。
「上から、マッサージをしますね」
セヴァリーノが私の上に跨ったことが見なくてもわかる。
私の腰に、セヴァリーノの両手が置かれた。大きいから、ウエストまで触れている。そのまま、ズズッと押しながら背中に上がっていく。
「ん、ふっ……」
息が漏れてしまう。気持ちがいい。
眠気も手伝って、とろとろとした熱さがたまらない。
「声を我慢しなくていいのですよ、グラナドートお嬢様」
また腰から背中へ、ズズッと押し上げられたけれど、私は声が出ないように堪えた。
「気持ちが良いのならば、どうぞ声を聞かせてください」
露出している首に、セヴァリーノの熱い指先が触れる。軽く押して首や肩を揉んできて、気持ちがいい。息を漏らしながら、瞼を閉じた。
もう、身体が動きそうにもない。とろとろした熱を持ったまま、眠気に落ちそうになる。
「気持ち良いですか? お嬢様」
右耳に囁かれて、ぞくりと快感が駆け巡った。セヴァリーノの手がまた太ももに触れて、ベビードールの中に滑り込んでいくから私はビクリと震える。
「あんっ……」
シーツを握り締めて、濡れた声を零してしまった。