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後部座席に乗れば、助手席のオズ・ジュベッセから自己紹介をされた。あとからデビーも。
私の名前も問われたから、少し考えてからロートと名乗った。日本育ちの客人としか聞いていないらしく、私の素性を知りたがるけれど、はぐらかしておいた。
「どこまで行くの?」
「ミラノ。いいクラブがあるんだ」
ミラノ。殺人鬼がいるのに、いいのだろうか。でも、自分が被害に遭うわけがない。捕まえようとしているセヴァリーノと鉢合わせしないといいけど。
いなくなったと知ったら慌てるだろうか。困ってしまえばいい。私を惑わせた分だけ。
あんなことを言われたのは、初めてだ。
私は誰かを求められたことないし、求めたこともない。必要とされたこともなかった。だからボスの座なんてごめんだけれど、ハロルドのそばにいることにした。
ハロルドのせいで、私なんて欠陥品みたいなものだ。ひねくれていて、存在意義もなく、ぽっくり死にたいと願いつつ、日々を過ごしていた。
そんな自分自身を好きになれるわけもなく、時折殺したくもなる。誰かにこんな私を知ってもらうなんて、出来なかった。誰かに好かれるはずもなく、誰かに影響を与えるわけもない。
セヴァリーノは、受け止めると言った。その言葉には救われるけれども、目的があって利用したいだけ。着飾って私を操りたいだけの薄っぺらい台詞。
セヴァリーノの魅力にクラクラしている自分にも、腹を立てている。しかし、セヴァリーノの言動はその倍。憎らしくも思う。
あのクローゼットの中。私が欲しがったものを見逃さないくらい、私を見ていてくれたセヴァリーノだから。なおさら。
「……やはり、体調が悪いのですか? ロートさん」
オズが心配そうに覗く。不機嫌な顔で黙り込んだせいだろうか。
「いいえ」と笑顔を作っておく。
どちらかと言えば、可愛い顔をしたオズに心配されるのは悪くない。
でも、こうやって弱音や本音は口にせず、友と楽しく笑いあうことが染み付いた私は笑顔を作る。愛想よくすれば、気持ちよく楽しめるものだ。気晴らしをしている間、セヴァリーノを困らせてやればスッキリする。
「ねぇ、本当にセヴァリーノの恋人じゃないの?」
「……彼は私のお目付け役」
「ふぅん」
デビーの質問は、かれこれ三回目だ。何故そんなにしつこいのかと訊いてみた。
「セヴァリーノさん、あなたが来てから上機嫌というか……浮かれているように見えますよ」
オズがおかしそうに笑って、先に答えた。
「でもこんなに美しい人に毎日会えるなら、喜ぶのもわかるな」
運転しながらデビーは、私にチラリと視線を送りながら微笑んだ。
「……セヴァリーノさんは、厳しい人なの?」
「真面目に冷静冷徹に、淡々と仕事をこなす人だよ。でも君が来てから、やわらかい雰囲気になることが多いんだ。君のことを話題にすると、今まで見たことないくらい楽しそうだった」
デビーもオズも笑う。
私は初めて会っ日を思い返す。飛行機の中では、終始私を見つめてきて、写真まで撮ってきた。それに今朝は木に登って窓に飛び込んだ。あれは通常運転じゃなかったらしい。
「尻尾を振る犬みたいな?」
「あはっはっは!」
例えてみれば、デビーは大笑いした。イタリア語でなにか言ったけれど、わからない。ニュアンス的には、面白いとかその辺だろう。
「あの人、女っ気はないからさ。そうやって君に夢中な感じが新鮮でおかしくってたまらないんだよ。違うなら、いいんだ。恋人だったら、連れていったこと、怒られかねないからさ」
デビーに私は笑みを返す。きっと怒られると思う。ごめんなさいね。
彼らの話が本当だと、余計混乱してきた。あの眼差しも、あの言葉も、本物かもしれない。
でもそれだと理解できない。何故、私なんかにそうまでしてくれるのだろうか。恋なわけないでしょう。愛おしいげに見つめてきたり、触れてきた理由が、それだなんて思いたくない。思えない。
あんないい男にあんな台詞を言わせるようないい女ではないのだから。
そもそも、女っ気がないとは信じられない。あんないい男に女性が寄ってこないわけがないでしょう。結婚指輪はしていなかったから、独身なのは間違いない。でも、かといって恋人がいないとは限らないだろう。恋人を紹介していないだけかもしれない。こんな仕事だから、隠すこともあるでしょう。
「私ではなく、ちゃんとした恋人がいるでしょう」
買い物の時だって、女性の扱いがよくわかっている様子だった。いるはずだ。
けれど、デビーは今日一番面白いことを聞いたみたいに、笑い声を高らかに上げてハンドルを叩いた。イタリア語でなにかを言ったけれど、これもまたわからない。
すると、オズが叱るような声を投げつけた。それでもデビーは笑っている。全然、把握できない。
「僕達には話していないだけで、いるかもしれませんね」
オズは気をとり直したように、私に笑ってみせた。どうやら、セヴァリーノの話をこれ以上するなと止めたみたいだ。
「好きなお酒はなんですか? ロートさん」
「お酒はあまり飲まないので」
「一杯だけ飲もう、カクテルをさ」
お酒をよく勧める人達だ。他人におごってもらうなんて、身の危険を感じる。それはドラマや映画の観すぎのせいか。客人に薬を盛って手を出すわけない。けれども、用心して損はないでしょう。カクテル一杯だけもらうことにして、なにも盛られないように見張っておこう。
連れて行かれたミラノは、見たことのない夜の光景だから、また来たという気はしない。
そして案内されたクラブ。やっぱり場違いだって思う。薄暗い店内をチカチカと輝かせる照明、それときつそうに木霊する音楽、溢れそうな人混み。
縁のなかった私には、楽しむ自信がない。
けれども、ひきつる私を笑いながらデビーは手を引いて奥へ進んでいく。震える音楽に合わせて踊る人達は、お洒落というよりちゃらけた格好だ。私は浮いているだろう。
「イタリアは初めてなんだって?」
バーのカウンターにつくと、デビーは掻き消されないように大きな声を上げて私に訊ねた。初めて。
「じゃあ、イタリアのリキュール、アペロールで歓迎する。オレンジジュースでカクテル作ってもらおう」
私は無駄に努力をして声を張り上げることなく、首を縦に振ってそれでいいと答えた。
男性のバーテンダーに頼むデビーを隣で見張る。なにも盛られないように。こういう場所のお酒は、絶対に飲み物から目を離さないことに限る。
怪しい仕草はなく、デビーは私に赤みの強いオレンジ色の酒が入ったグラスを渡した。デビーとオズも同じカクテルみたいだけれど、ちょっと大きめなグラスだ。お酒は飲み慣れていないって言ったから、私は少なめにしてくれたのだろうか。
「はい、ロート。我が国、イタリアにようこそ!」
カラン、と乾杯した。歓迎されたから、笑みを溢す。一口飲む。オレンジだから爽やかで、飲みやすいカクテルだ。赤みの強いオレンジ色も素敵。
「さぁ、踊ろう」
「あー……どうかな。私はここにいるから、二人は楽しんだら」
ぐびっと飲んだデビーがカウンターにグラスを置くと、私の手を引こうとした。私はしぶる。せめて、酔いが回ってからにしてほしい。
「君ほどの美人を置いていくなんて、バチが当たる。オレがリードするから、来てよ」
「一人になったら、他の男に囲まれてしまいますよ。僕達と一緒にいてください」
デビーは、私を引っ張り込む。オズも私のグラスを取ると、釘をさして見送る。
あのカクテルは、もう口にしないようにしよう。
「ほら、リズムに身を任せて、楽しくなるって」
踊っている人達の真ん中で向き合ったデビーが、身体を揺らすようにリードした。言われるがままに、リズムに乗ってみる。
「そうそう、その調子」
顔を近付けて声を届けるデビーは、続けた。
うん、楽しいかもしれない。 周りがノリノリになるのもわかる。
「もっと腰を揺らして……そう、魅力的だ」
私に後ろを向かせて、背に立ったデビーは耳に声を吹きかけた。私の腰に、手を当てている。
酔いが回ってきたのかしら。私は嫌がることなく、そのまま踊る。ゆったりと気持ちが良さが回っていく。デビーが寄り添って、その手を私の身体にそっと動かしていった。
アルコールでぼやける感覚のまま、木霊する音楽に揺らされるように身を任す。徐々に理性が離れていくような気がする。
「……カクテル飲むわ」
デビーと顔を合わせようとしたら、とても近い。唇が近い。じっと見つめてくる彼に、カクテルを飲みに戻ると伝えて顔を背けた。そして、引き止めようとする手を無視して、オズの元に戻る。
デビーが欲情した顔をしていた。さすがにボスの娘に手を出したら、ただじゃすまないと思うからさせないようにしないと。
「……?」
ぐらり、と視界が揺らいだ。それほど強い酒だとは思わなかったけれど、酔いが回りすぎ。ちょっと眠気に似たものに襲われて、瞼が重くなる。
顔を洗いたい。けれど、お手洗いの場所がどこかわからない。とりあえず、人混みが多く音楽がガンガン鳴り響くここにいると目が回ってしまいそうになるから、出たくなった。
壁の方を目指せば、裏口らしいドアに辿り着けたから外に出れた。これで落ち着けると思いきや、さっきより酔いが酷い。足が覚束かず、グラグラと揺れた。
おかしい。たった一口でこんなにも酔うはずない。
薬を盛られた?
いや、ちゃんと見張っていた。バーテンダーが出して、デビーが差し出してくれるまで、見ていた。なにも入れられてなかった。
じゃあーーバーテンダーが薬を盛った?
そうとしか、考えられない。オズ達の元に戻りたかったけれど、どっちに行くべきか、判断ができなくなってきた。それどころか、立っていることもできなくなる。壁に手をついても支える力もなくして、暗い路地裏に倒れてしまう。
遠退く意識の中、近付いてくる男が見えた。
酒を出したバーテンダーだ。
ミラノで女性ばかりを狙う連続殺人鬼だとわかっても、私はなすすべもなく意識を手放した。