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暫くして、イタリア語を耳にしたから目を開く。
車の天井と、セヴァリーノが見下ろす顔が、一番に目に入った。
眠ってしまって、膝枕をされているんだ。起き上がって唸るように謝る。
またマリオさんが、上着をかけてくれたらしい。お礼を言って、返しておく。
「メイクは崩れていませんよ」
「どうも……」
してもらったメイクを崩さないように目を拭う。少し楽になったので、一息ついた。
「あとどれぐらいで着きますか?」
スモーク貼りの窓では、イタリアの景色は楽しめない。あとどれぐらいでマフィアのボスの本邸に着くのか。
「……着きましたよ」
窓に目を向けたあと、セヴァリーノは私に笑いかける。
車は停まった。もう着いたのか。
私はギョッとして髪を整える。まだ髪型を決めていない。全部まとめてしまおう。巻き上げるように束ねて、蝶型の髪留めをつけた。
「美しいですよ」
セヴァリーノは褒めるけれど、私は信用しない。
でもこれが私の限界なので、差し出された手を掴んでリムジンを降りた。
……どうしよう。もう彼の手に触れることに慣れてしまった。
本邸と呼ばれた建物を見て、驚愕する。豪邸だ。
二階建てだけれど、一階が随分と高く見える。玄関がまるで王宮の入り口のように、柱が立っていた。
由緒ある高級ホテル、または大富豪の家だと紹介されれば納得できる。
通りで金銭感覚が狂っているわけだ。マフィアとして、想像絶するほどの成功をしているよう。
帰りたい。質素な1Kの家に帰りたい。
「おや? 緊張してますか?」
「か、え、り、た、い」
「お父様は寝室におられます」
強張った私に、セヴァリーノは微笑みかける。
声を押さえて訴えるけれど、病人を人質に私の背中を押す。
私は口を閉じて、悲鳴を上げる。帰りたい。
足を引き摺るように扉を潜れば、また帰りたいと悲鳴を上げたくなった。
左右に続く廊下があり、一つ螺旋階段がある。その螺旋階段のそばには、噴水があった。家の中に噴水だ。金の噴水。
客人を待たせるためであろうソファーの足まで金色だ。何度目だろうか、帰りたい。
母親は朝昼晩働いて生活費を稼いだと言うのに、ソファー代くらいは私の養育費を払ってくれればよかったのに。そればかり考えて、うんざりしてしまう。
マフィアから生活費をもらうなんて、バカげているけども。
父親がいないからこそ、得ることができないものは山ほどあった。高校も母に遠慮をして定時制を選んで高卒だけ手に入れたんだ。
仕方ないことだと、割り切って生きてきたから、今更金を払えと言うつもりはない。
ただ、うんざりしてしまうだけ。
ため息をつきながら、マフィア上層部と一緒に階段を上がる。マフィアのボスは、二階か。
「息子達を後々紹介しますね」
二階の長い廊下を歩きながら、デレクさんが言った。
進んでいくに連れて、私の歩調は遅くなる。
「……息子さん達もマフィアですか」
興味ないけれど、緊張を和らげるために私は会話を繋げてみた。
「そうですよ。幹部の見習いです。オレ達の死後か引退後に、ポジションを継ぐ予定です」
マフィア一家か。
緊張が和らぐ話だこと。彼らと会うのは避けたいものだ。
「トラテレーノファミリーの伝統なのです。代々血族の者が継いできました。私も亡くなった父の跡を継いで、顧問を務めています」
前を歩くセヴァリーノが、口を滑らせた。
私は前に出した左足を、後ろに引き戻して回れ右をする。
マフィア上層部の背中から、突き刺すような威圧を感じた。
直ぐ様走り出して、玄関に向かう。手摺を軸に螺旋階段を駆け下りて、扉に突進するつもりで駆けた。
でもセヴァリーノが飛び降りてきて、行く手を塞ぐ。背筋がゾッとした。触れるほど近くに現れたセヴァリーノのーーマフィアの顔を、垣間見た気がする。
ブレーキに失敗して転びかけた私は、後退りして逃げようとした。
でも、セヴァリーノに掴まれてソファーに押し倒される。
「状況把握が早いですね、警戒心も強いです。いいことです、身を守るために必要なことですから」
「冗談じゃない!」
優雅に微笑むセヴァリーノに、マフィアのボスを継ぐことはお断りだと怒鳴ってやった。
元々、この国は子が家業を継ぐ傾向が強い。古きものを重宝する。伝統にも忠実。
マフィアのボス、ハロルドに残された子どもは、私だけ。ボスの座を継ぐ資格を持つのは、私だけ。
だから、私を連れてきた。ハロルドの死後、私に継がせるために。
「しー。グラナドートお嬢様」
セヴァリーノが人差し指を私の唇に当てた。興奮して息も切れていた私は、息を整えようと心掛ける。
「我々はまだなにも言っていません」
「へぇーそう? じゃあ誰が後継者なの?」
とぼけるな。噛みつくように言えば、セヴァリーノはクスクスと笑う。それが吹きかかるほど、近い。
「グラナドートお嬢様……お父様に会ってください。そのために、お連れしたのですよ?」
ペリドットの瞳で私を覗き込みながら、艶かしく囁いてきた。人差し指が私の顎をなぞると、髪を撫でる。
「髪留めから少し溢れてしまっています。……でも美しいですよ」
まるで、蛇に絡められてしまっているように、身体が動けなくなった。
このセヴァリーノは魅力的な男でも、狂気を秘めていると思い知る。優美であっても、この男もマフィアだ。
逃げられない。観念して、二階の寝室にいる父親の元に大人しく連れていかれた。
「……やぁ、グラナドート」
大きな薄暗い部屋の大きなベッドの上に、窓を背にして座る男性がいる。
髪は黒く、オールバックにしていた。瞳は青だろうか。
でも形は、私と同じ丸アーモンド型。睫毛も長そう。四十代のわりには若々しく、美形な男。
彼が、私の父親だ。初めて会う父親。マフィアのボスで、余命は半年。
亡くなったら、私がボスの座を継ぐ羽目となる。複雑どころじゃない。心情は混沌と化していた。
でも少しやつれた顔で優しく微笑みかけて、腕を広げた彼に、笑みを返せずにはいられなかった。
「会いたかったよ……グラナドート」
ただ、互いに抱き締める。記憶の中では初めての父の抱擁なのに、とても懐かしく感じた。
それに胸が締め付けられる痛みがして、涙が込み上げて右目から一滴落ちる。父親の温もりを感じながら、逃げられないと思い知った。
余命半年の父親のそばにいることを、決めてしまった。