8.これって初トリップ?
※20160327 第二回お仕事コンに向けて改稿しました。
「どうしろっていうのよ」
立ち去る高梨さんの背を見送って、わたしは桜の根元に座り込み、目を閉じた。
会いたいに決まってるじゃない。
生まれてから十八年、悲しい時も嬉しい時も共にすごした。
桜を一緒に見た次の年。
進学で大阪に行って――わたしは待てなかった。
帰ってくる前に、わたしの命が尽きてしまった。
最後に会いたかった。
一目だけでもいいから。
今頃はきっと三十前のいい男になってるにちがいない。
きっと奥さんもいて、子供もいて、仕事も順調で……。
――会いたいよ、まもる。猫として、ちゃんとお別れできなかった。叶うなら、まもるの猫にもう一度なりたい。
不意に周りの気温が下がった気がした。目を開けると闇に塗りつぶされている。
「えっ?」
湿ったカビのにおいがした。
地面の手触りが変わっている。じめっとした布地の感触。綿っぽい。布団のような湿った綿。
立ち上がろうとしたらしこたま背中をぶつけた。
かなり狭い場所だ。少し手を上げただけで天井に届く。
どこなの、ここ。
暗闇に慣れてくると、細い光の筋があるのに気がついた。
こもった声が聞こえる。誰かが喋っている。
どうやらここはどこかの部屋らしい。隙間の向こうに誰かがいる。
「なんか押入れで音しなかったか?」
「まさか、誰もいやしないよ」
「最近空き巣被害が続いてるって言うからなあ」
「怖いこと言うなよ」
「一応確認してみようぜ」
いきなり目の前が開けて、飛び込んできた光で目がくらんだ。
「なんだぁ?」
巨大な手が伸びてきた。
もしかしてここは巨人の国?
必死で身をよじって逃げようとしたけれど、手はあっさりとわたしをとらえた。
腹の下から救い上げられるように持ち上げられた。
「ちょっと、なにすんのよっ」
抗議の声を上げたけれど、うなり声にしかならなかった。
明るいところに引き出されて視界に入ってきた自分の腕は、白と茶色の縞模様に染め上げられた毛で覆われている。
「ちょ、猫?」
猫?
嘘、いつの間に猫化したの?
そりゃ猫又だもの、完全な猫化はできる。しっぽが二本になるけど。
でも、今は自分で猫科しようとはしなかったはず。
そんなに驚いたりもしてない。
なのに、どうして?
自分の体を確認したあと、わたしをつかんでる手の持ち主に視線を移した。
それは、若い男性だった。
最後に会ったまもるは十八だった。それよりはもう少し年上に見える。
「なんだ。護、猫飼ってたのか? ここってペット飼えるんだ」
まもる……?
まさか。そんなはずない。
「猫? いや、ペット禁止だから無理」
視界に入ってきたもう一つの顔は、確かに記憶にある護の面影があった。
どきり、と心臓が高鳴る。
あれからもう何年も経ってるのに、護の顔ははっきり覚えてた。
目の前にいるのは間違いない。
まもるだ。
体をひねって男の手から逃れると、まもるの腕に飛び込んだ。
――まもる、わたしだよ、わからない?
「うわっ、おい、ちょっ」
まもるがわたわたしてるのを横目に、彼の体に頬ずりした。
まもるの腕、胸、頬、唇……。
覚えてるままのまもるだ。
わたしだよ。
少し小さく……ううん、若くなってるかもしれない。
死ぬ間際のわたしはこんなに体が動かなかった。
嬉しい。
ぐるぐるとのどを鳴らし、しっぽをぴんと立てて体を擦り付ける。
「それにしちゃぁよくなついてるじゃないか。こっそり飯やったりしてたんじゃないのか? ぺろぺろ舐められてるし。お前もいやそうに見えない」
「いや、そりゃ猫は好きだから。でも……よく似てる」
「なにが?」
「実家で飼ってた猫に似てるなって。こんな茶色の縞猫だったんだけど、この間いなくなったって、お袋から電話があってさ」
ぴくりと耳を動かす。
この間?
わたしが猫又になってから、もう十二年は経っているのに。
じゃあ、本当に十二年前に来たの?
だから猫の姿のままなの?
手弱女の言葉がよみがえった。
『そのガイドは二度と戻ってこなかった』
戻ってこなかったんじゃなくて、戻れなかったんじゃないの?
「じゃあ、はるばるここまで来たってことか? すげえな、お前」
知らない男がはしゃぎながらわたしの頭をなでさする。
やめてよ、変なにおいついちゃう。
耳をぺたりと倒すと彼の肩によじのぼる。
「まさか、広島から大阪まで来れるわけないだろ? 十八歳の年より猫だぞ?」
「あー、じゃあ無理かもなぁ。それにしても長生きだったんだな」
「うん、俺が生まれてすぐに拾ったって聞いた」
「じゃあ、乳兄弟みたいなもんか」
「そうだな。――もしかして、あいつの生まれ変わりかなんかかな。それとも、お別れ言いに来てくれたのか? なあ、りり」
はじけるような音がした。
耳にじゃなくて心に。
そうだ。
わたし、りりって呼ばれてた。
お母さんたちはリリーって伸ばして呼んでたけど、まもるはなかなか呼べなくて、りりって。
「まさか。この猫、ちゃんと生きてるだろ? 俺も障れたし。触れる幽霊とかいうなよ」
のどを撫でられてゴロゴロ鳴らす。
そう、もう一度こうやって撫でられたかった。
まもるの手で。
ここが過去だとしても、このままこの体で息絶えたとしても。
――もう、心残りはない。
滲む目でまもるを見上げて目を閉じた。
「それじゃ困るのよ。まったくもう」
聞き覚えのある声が降ってきた。
目を開けて顔を上げると、部屋の天井のあたりに手のひらサイズの人影が浮かんで見える。
桜色の振袖と、紺色のスーツ。
わたしの視線を追って、まもるも顔を上げる。
「ん? なんか見えてるのか?」
「怖いこと言うなよ」
「猫って結構こういう仕草するよな。何にもないところをじっと見てさ」
「まさか幽霊がいるとかいうなよ?」
「さあ、どうだろう。でも猫には何が見えてるんだろな」
まもるたちの声が聞こえる。
ということは、あの二つの陰はまもるたちには見えていないんだ。
「だからやなのよ、この見習い制度。いっつも予告もなしにいきなり新米をこっちに放り込んでくれちゃってさ。毎回回収するの、大変なんだからね? ちょっと、聞いてる? 恭子」
「わかってるわよ。しつこいわね、手弱女。文句なら社長に直接言ってよね。ちゃんと教育してから現場に出すようにって言ってるのに、採用翌日から見習いで投入してくるの、あたしたちもほとほと困ってるんだから」
恭子って、加賀谷さん? それに手弱女って……。
「見習いの間は一人で送り出せないの、わかってて、わざとやらせて櫻の園に落とすの、こっちも罪悪感たっぷりなんだから」
「それでガイドの適性を見るとかさぁ、あんたのとこの社長ってほんと、鬼畜よね。させられる新人のこと、ちっとも考えてない。可哀そうよ」
「うるさいわね。……緋桜さん、帰るわよ。船が港に着く前にお客様を送り返さなきゃ」
じゃあ、これはこの二人の仕業?
櫻の園に落ちたのも、過去に飛んだのも、猫の姿になったのも?
「違うわ。ああ、落ちたのは本当。でも、あとはあなたの力よ」
わたしの?
「説明は後にしてくれないかな。そろそろ門が閉じるわ。――そこの新人」
「え?」
慌てて返事をしたが、猫の声になった
「文句があるなら白毛玉に直接言いなさい」
手弱女はそういうと天井のほうへ飛び上がる。
「ちょっと、もう! 緋桜さん、あなたが会いたかったのはその男ね? 今の彼に会いたいとは思わないの? 人の姿であれば、猫の時には通じなかった言葉を届けることができるのよ?」
今のまもるにも会いたい。
会いたいと思っていた。
でも、きっと今のまもるは、猫又のわたしを見てもきっと気が付かない。
もう彼女もいるだろうし、もしかしたら結婚だって……。
「何後ろ向きになってんのよ。女でしょう? 好きな男の一人や二人、振り向かせるくらいのこと、できなくてどうすんの。自信持ちなさい。あなた、かわいいんだし」
好きな男……なんだろうか。
すっとやんちゃな弟だと思っていた。
一緒に大きくなって、気が付いたらわたしをあっという間に追い越して、大人になって。
いつの間に恋や愛に代わってたんだろう。
独り占めしたい、なんて感情、猫の時にはなかった。
猫又になったから?
人の姿になったから?
理由なんてわからない。
『でも、強い思いは止められない。里美さんが飛んでいったようにね』
高梨さんの言葉がよみがえる。
会いたい。
会いたいよ。
幻でなく、昔のまもるじゃなく、今のまもるに。
触れたい。
「帰るわよ」
加賀美さんがくるりと背を向けたのが見えた。
わたしはまもるの腕をすり抜け、肩によじ登るとぽーんと飛び込んだ。
天井の穴へ。
「えっ」
「おい、あれ」
振り向くと、まもるたちがこちらを見上げているのが分かる。人の姿にもどったわたしは手を振り、涙を振り切った。