10.借りられません!
「お、はようございます」
「おはよう」
顔洗って食堂に行くと、すでに火村さんが座っていた。あいさつをすると、眼鏡をかけた火村さんは軽く頭を下げてきた。
額に大きな絆創膏があって、昔見たアニメのキャラクターを思い出してつい口元を緩めた。
「……何?」
「いえ、なんでも」
「はぁいお待たせ、萌ちゃん」
「わ、いただきますー」
口元を拭って席に着くと、寮母さんがすかさず朝食をセッティングしてくれる。今日はチーズトーストに蒸し鶏のサラダ、クラムチャウダー。あー、この味、大好き。
「で、今日はどないするん? 二人とも」
あったかいお茶を入れてくれながら、寮母さんが聞いてくる。
「あ、わたしはちょっと出かけてきます」
「あら、デート? いいわねえ、若いって」
「違いますって。会社に顔出すだけです」
「あらまあ、休みなのに?」
「はい、パソコンの使い方をおさらいしようかなと思って」
「勤勉ねぇ。休みなんだから、もっと若者らしく遊びなさいよ」
寮母さんの言葉に苦笑しながらトーストにかじりつく。遊びたくても先立つものがないんですってば。兄貴が一緒でなきゃ何もできないしし。
「君、パソコン使えないの?」
不意に斜め向かいに座る火村さんが口をはさんだ。顔を上げると、じっとこちらを見ている。
火村さんの口調が責め口調で、どきりと心臓が痛む。
今時パソコンぐらい使えなくてどうするのって田舎を出てくるときにさんざん言われたんだよね。兄貴はそっち方面の仕事に就いてるし、さっちんだって使いこなしてる。
ガイドさんにもあてこすられたことあるし……。
やっぱりそう思われてるんだろうか。
そんな不安を押し隠して、わたしはへらりと笑う。
「あ、はい。パソコン触ったのも会社に入ってからなので……」
「それなら寮でもできるんじゃない?」
「でも、パソコン持ってなくて」
「へえ」
「スマートフォンも支給されたものが初めてで、まだ使いこなせてなくて」
えへ、と苦笑を浮かべながら、なんでこの人にそんな説明してるんだろう、と首をかしげる。
火村さんは黙り込んでしまった。眉間にしわが寄ってるし、怒ってるんだろうか。
三か月の間にちゃんと使えるようになりたいだけなんだけどなぁ。
気まずくて、会話を打ち切ってサラダの蒸し鶏をほおばると、火村さんは箸を置いた。
「僕のを貸そうか?」
「……え?」
パソコンを? 貸してくれる?
「あら、いいじゃない。焔くんに貸してもらいなさいな」
「えっ」
寮母さんがそういいながら湯呑みにお茶を注いでくれる。
いや、でもパソコンですよ? すっごい高いって聞いてるよ? そんな高価なもの、借りるって大丈夫なの? 万が一壊しちゃったりしたら……。
でもでも、もし自分の部屋で自由に使えるなら、仕事が終わって帰って来てからでもできるってことだよね?
どうしよう……。
内心おろおろしつつ、目の前のクラムチャウダーをにらみつけていると、ぶはっと笑う声が聞こえた。
顔を上げると、火村さんが伊達眼鏡をはずして目元を拭っているのが見えた。うわぁ、超絶美形が泣き笑いしてるっ。
「な、なんですかっ」
「いや……君、面白いわ」
火村さん、喉の奥で笑いながら苦しそうにそれだけ言う。全開で笑われてるのって、ちょっと傷つく。
「萌ちゃん、心の声がだだもれやで」
寮母さんにまで笑われた。えっ、もしかして口に出してた?
慌てて口を両手でふさぐと、寮母さんは堪えきれないみたいに吹き出した。
「違う違う。高いモン借りて壊したりしたらどうしようとか、いつでも使えるのいいなあとか、顔に出てたで」
「ぐはっ」
うわぁ、なんて恥ずかしい。顔があげられなくてうつむいていると、ようやく火村さんは笑うのをやめてくれた。
「ごめん、君を笑ったわけじゃなくて」
「へぇ、それ以外の何があったんかなぁ? 焔くん」
「……ごめんなさい」
寮母さんの揶揄に火村さんは素直に謝った。どう言葉を返せばいいかわからなくて、結局小さくうなずく。
「ま、萌ちゃんが許すんならえっか。で? 焔くん、かまへんの?」
「ええ、キーボードの練習をするぐらいなら十分動くのがあるから。ネットは使えませんけど」
「まあ、十分なんちゃう? 萌ちゃんところは電話線引いてへんし」
「それでよければ。……緋桜さん」
「は、はい」
名前を呼ばれて顔を上げると、眼鏡をかけた火村さんが柔らかく笑っていた。……本当に眼鏡かけてるとどんな顔で笑ってるのか、わからないんだ。
いや、見てはいるんだけど……どんだけ頑張って覚えようとしても、するりと逃げてしまうような。
「古いパソコンだから、気兼ねなく受け取ってほしい。壊れても気にしなくていいし」
「そんなわけにはいきませんっ」
落っことしたりして壊しちゃったら……やっぱり迷惑になるに違いない。断ろう。
「あの、火村さん」
「パソコンを置いて使える場所はある?」
「え? えっと、ライティングデスクぐらいしか……」
「あー、あかんあかん。あのライティングデスク、耐荷重あんまりないねん。壊れてまうからやめてくれる?」
寮母さんが胸の前で手を振っている。会社で使っているノートパソコンなら、そんなに重たそうには思わないんだけど、無理なのかぁ。
「ああ、そうですか。譲る予定なのはデスクトップだから、本体とモニターでも結構重量ありますし、キーボードとマウスが置けるスペースがないと無理ですから、机が別に必要ですね」
「あの……」
「一階の部屋は狭いからねえ。ちょっと無理やわ」
「じゃあ、僕の部屋に来てもらうしかないですかねえ」
「焔くんの?」
うーん、と寮母さんが唸っている。
断ろうと思ったのに、なんか二人の間で話がトントン拍子で進んでいる。わたしの言葉は聞いてもらえないみたいだ。
それに、なんか火村さんの部屋で使うような話になってませんか?
「あ、あのっ」
「二階に上がるのも、用事があれば問題ないですよね?」
「せやねえ。……ま、ええか。でも、焔くんがいないときには使われへんなるよ?」
「それは……困りますね」
火村さんはほとぼりが冷めたらまた寮を出ていくって言ってた。だから、なんだろうけど……。
ちらりと私の方を見て、火村さんはため息をついた。
火村さんがいないときに勝手に部屋に入るとか、だめだよ。彼女でもないのに。
それぐらいなら、開いてる部屋とかに置いてもらえないかな。
「まあ、でも三か月ぐらいなら大丈夫じゃないかと思うんで」
「そう?」
寮母さんが首をかしげている。
もう、私の意志は関係ないみたいだ。ため息をつくと、チーズトーストに手を伸ばす。
「じゃあそういうことで。焔くん、ちゃんと戻ってきぃや?」
「はいはい。……じゃあ、そういうことでいい? 緋桜さん」
「えっと……」
どういう結論になったのだろう。二人の顔を交互に見ていたら、寮母さんは苦笑しながら話してくれた。
「焔くんが寮にいる間は、焔くんの部屋でパソコン使ってええっちゅーことやね」
「えっ、でも火村さんがお出かけしてるときは使えないですよね?」
それに、男の人の部屋に一人で入るとか、い、いいの? 恋人とかいるんじゃないの?
だとしたら、恋人さんに悪いと思うんだけど……。
「僕はかまいませんよ」
ちらりと見ると、火村さんはにっこり微笑んだ。えっと、それはどっちの「かまわない」なんだろう。
「人に見られて困るものは置いてないし、そもそもほとんど戻らなかったから」
「じゃあ、こっちの鍵も渡しとこか」
ちゃり、と音を立てて寮母さんが私の前に置いたのは、私の部屋の鍵と同じく札のついた鍵。
札には『焔』と一文字書かれていた。
これってもしかして……スペアキーとかマスターキーとかいうやつじゃ……?
「え、いいんですか?」
「うん、かまへんよ。これがあれば焔くんいなくても入れるし。ええよね? 焔くん」
「ええ、どうぞ。食事が終わったら僕の部屋に来てください」
そう言って火村さんは腰を上げた。トレーを手にしたところで寮母さんが引き取り、火村さんはさっさと部屋に戻っていった。
「よかったねえ、萌ちゃん」
「……いいんでしょうか」
「本人がええ言うとるし、気にせんでええよ。もろとき」
「はい……」
それにしても。
女子寮じゃないことを知った翌日に、男性の部屋に出入りするようになるとか考えられない。
男子の部屋に入るのは猫時代にさんざん入り浸ってたから初めてじゃないけど、飼い主じゃない男の人の部屋に入るのは初めてなのだ。
でも、二人きりになるのだけは避けたいな。できるだけ火村さんのいない時間帯を狙って使わせてもらおう。
というか……兄貴には絶対言えないよね、こんなこと。
ばれたらどんなことになるか……。
「ほら、早う食べてしまい。焔くん待ってるで」
「は、はい」
慌てて食事を詰め込み、『焔』の鍵を手にすると自分を奮い立たせて食堂を出た。




