7.それ、聞いてません!
「ただいま戻りましたー」
寮の玄関を鍵で開けて入ると、奥にいるはずの寮母さんに声をかける。田舎にいたときの癖なんだよね。
寮に入って二日目についいつもの癖で声をかけたら、奥からくすくす笑いながら寮母さんが出てきて、「はい、お帰り」と言ってくれた。
家のつもりでうっかり口滑らせたとか恥ずかしかったけど、誰かが応答してくれるのって嬉しい。
それ以来、寮に帰ったらいつも声をかけることにしている。
「はい、お帰り。めぐみちゃん。手ぇ洗って着替えたら手伝うてぇな」
奥から声が返ってくる。味噌のいい匂いがふわんとしてきて、現金なわたしのおなかは途端にくぅと鳴る。寮母さんの作ってくれるご飯は本当においしいのだ。いつかは自分でも作れるようにならなくちゃ。
時間は十八時を過ぎたところだ。
「はーい、すぐ行きます」
そう答えたところで、後ろの扉が開いた。何気なく後ろを振り向いたら、見覚えのある顔がそこにはあった。薄茶色のふわふわの髪の毛、ビスクドールみたいな真っ白な肌。薄茶の瞳がわたしを見下ろしてくる。
「え……蜂谷さん?」
「ちょっとー、早くどいてくれるー?」
「あ、すみません」
あわてて避けると、蜂谷さんは慣れた足取りで中に入り、壁際のソファに腰を下ろした。
「容子ちゃん、帰ったんなら声かけてぇな」
「あーはいはい、ただいまもどりましたぁ」
奥から寮母さんが前掛けで手を拭きながら出てきて、わたしににっこり笑いかけてきた。
「萌ちゃん、初めて会うんちゃう? 二階の蜂谷容子ちゃん。めぐみちゃんの先輩」
「あ、いえ」
「昨日会ったもんね」
「昨日?」
首をかしげる寮母さんに加賀美さんの代わりの指導役が蜂谷さんだった話をすると、寮母さんは目を丸くした。
「あぁ、そうやったん」
「そうなの。ねー、美織さん。加賀美から何か聞いてる?」
「何にも聞いてへんよ。……めぐみちゃん、早う着替えておいで」
「あ、はい」
あわてて玄関を横切り部屋に向かう後ろから、二人の会話が聞こえてきた。
「容子ちゃん、今日は晩御飯食べるやろ?」
「んー、どうしようかな」
「今日の献立は親子丼やで」
「……じゃあ食べる。部屋に持ってきて」
「食堂で食べる決まりやろ。我儘言わんの」
部屋の鍵を開けながら、そういえばこのあいだ、寝ちゃったときに丼持ってきてもらったことを思い出した。
あれって本当はダメだったんだ。今度からちゃんと食事の時間は守ろう。
鞄をベッドに降ろすと、部屋着に着替えてキッチンに向かった。
◇◇◇◇
食堂にトレーを並べる。
寮に入ってから今日まで、朝食も夕食も寮母さん以外はわたし一人の食卓だった。
でも、今日は蜂谷さんの分のトレーが向かいのテーブルに置かれている。
丼物だから、蜂谷さんが降りてきてから作るみたいだけど、箸とコップ、お味噌汁の蓋つき椀とお漬物はセット済みだ。
「めぐみちゃんの分、もう作ってもええ?」
「あ、はい。お願いします」
「ほなもう席についとき。持ってったげる」
「はい」
寮母さんに促されて席に座る。空席の蜂谷さんの席をちらりと見て、そっとため息をつく。
そうだよね、膳の準備がされてるからって、一緒に食べるとは限らない。
それにしても、蜂谷さんが寮生だとは思わなかった。
加賀美さんがつい最近までここにいた話は聞いたけど、上に住んでる他の先輩たちが誰かは寮母さんからも教えてもらってない。
蜂谷さんに偶然遭遇するまで、本当に上の部屋に誰か住んでるんだろうか、と思ったぐらいだ。他の誰かが歩いてるような音も聞こえなかったし、風呂やトイレで誰かと鉢合わせることもなかった。
「はい、お待ちどうさま」
「ありがとうございます」
ふわりとだしと卵のいいにおいがする。
「容子ちゃん、まだ風呂入っとるみたいやね。めぐみちゃん、待たんでええよ」
「あ、はい。じゃあ、いただきます」
お箸を取り上げる。猫は玉ねぎダメとか言われて猫の時には食べさせてもらえなかったけど、匂いが好きだった。猫又になってから最初に食べたがったのもこれだったっけ。
猫の時に食べられなかったものが食べられるようになった。猫又になってよかったと思った一番の理由である。
がらりとガラス戸が引かれた音がした。蜂谷さんがようやく降りてきたのだろうと、丼を持ったままそちらに顔を向けたわたしは、硬直した。
「いい匂いがする」
鼻をひくひくさせながらガラス戸から入ってきたのは、鴨居に頭をぶつけそうなほど背の高い、眼鏡男だった。
「え……」
どうして、どうしてここに男の人がいるの? とおもわず凝視してしまった。
きれいにくしけずられた黒い髪。Tシャツとスラックスのあっさりした装いで、無駄な肉なんか全然ついてないみたいな……でも男。
「あら、焔くん、珍しいわねえ。二か月ぶり?」
「美織さん。そんなになりますか?」
わたしの視線などお構いなしにその男はずかずかと入ってくると少し離れた席に腰を下ろした。寮母さんが出てきてお茶をテーブルに置いていく。
「今回はどこにいたの?」
「茅野のところに」
「剛くんのところか。奥さんには迷惑かけなかった?」
「大丈夫。むしろ子守りで感謝されたから。……ところで、誰? 新人?」
二人を交互に見ていたわたしは急にこっちを見た眼鏡男と目が合ってしまい、凍りついた。
「ああ、紹介まだやったね。今年入っためぐみちゃんや」
とん、と肩を叩かれて、反射的に手に持っていた丼と箸を置くと立ち上がって頭を下げた。
「緋桜萌と申します」
「で、こっちが二階に住んどる焔くんや。二年先輩やったっけ?」
「ええ。今年三年目ですからね。火村焔です。よろしく」
向こうも立ち上がっているらしい。しかも右手出してる……握手ってこと?
でも、ここって女子寮じゃないの?
立ちすくんでると寮母さんに背中を押された。おっかなびっくり手を出して握ると、強い力で握られた。
「いたっ」
「ああ、ごめん」
手を引き抜いてちらと顔を見上げると、口では謝罪しつつもこの人の目は笑ってる。なんだか怖い。
「焔くん、ちっとは気ぃ使いや。女の子やねんから」
「そうは言っても……スペシャルの子でしょ?」
「女の子は女の子やで」
「はいはい」
「晩御飯はいる?」
「いや、食べてきたから」
「そう。ほれ、めぐみちゃん。席に戻り」
ぽんぽんと肩を叩かれて、ようやくわたしは自分の席に戻れた。なんというか……蛇ににらまれたカエルの気分。いや、蛇はわたしにとっては恐怖の対象じゃないんだけど、眼鏡の奥の目が怖かった。
丼を持ち上げるけれど、食べ始める前のわくわく感はもうすっかり拭い去られてしまった。
眼鏡男……火村さんはわたしが食べ終わるまでじっと同じテーブルの端っこに座っていて、ちっとも落ち着けない。
もはや味も何もわからなくなってしまった親子丼を食べ終えると、厨房に運んで流しのたらいに漬ける。
ちらりと食堂の方をみると、まだ火村さんは元の席に座っていて、スマートフォンをいじっている。あれ……ここって圏外じゃなかったっけ。
「めぐみちゃん、お皿はそのままでええよ」
「いえ。……あの、ここって女子寮じゃ、ないんですか?」
「え?」
食器棚のあたりでごそごそしていた寮母さんは、こっちを見て首を傾げた。
「中村くんから聞いてへん? ここは男女混合の寮やで。女子寮とか別々にしたら管理ができひんからね」
「……聞いてません!」
てっきり女子寮だと思ってたのに。
そこで初めて自分の今の姿を顧みた。今まで自分一人だと思ってたし、いても女性ばっかりだと思ってたから気楽な恰好でいいやと思ってたんだよね。
ノースリーブのカップ付きTシャツとホットパンツ、スリッパ。
あの人の前でこんな格好でいたんだと思ったら顔から火が出そうなくらい恥ずかしくなった。
「道理でねえ……。まあ、焔くんが出てくまでの辛抱やけど、目の毒にならん程度の恰好はしてな?」
「は、はい。……出ていくって?」
すると寮母さんは周りにちらりと視線を走らせてわたしを手招きした。
近寄って耳を傾けると、「実はな」と小声で話してくれた。
曰く、眼鏡をはずしてガイドの制服を着た火村さんはものすごくもてるのだそうで。ファンが付いたりファンクラブができたり、果てはストーカーが出没するようになって、寮住まいだと突き止められたらしい。
侵入を試みる不届き者まで出て――だからあの入り口の罠ができたんだそうだけど――火村さん、友達の家に避難したらしい。
一か所に長くとどまっているとまた居場所を特定されるとかで、あちこちを転々としているとか。
「この前までいたのが会社の同僚の子のうちなんだけどね。嫁さんができた子でねえ。そこを出てきたってことは、迷惑かかるような状態になっちゃったんだろうねえ」
「……なんだか、すごいですね……」
確かに、背も高くてすらりとしてるし、眼鏡かけてるからわかんないけど顔も整っている。てっきり船の操縦をしてるんだろうと思ったら、わたしと同じスペシャルガイドだって。
若い女の子なんか、笑いかけられたらのぼせちゃうんだろうなあ。
わたしには怖い目としか見えないけど。
「まあ、二か月ぐらいやから辛抱したってな」
「……はい」
兄貴、嘘ついたことになっちゃってごめん。まさか女子寮じゃないなんて思わなかったよ。
お金貯めて、なるべく早く出ることにしよう。
お風呂もトイレも洗面所も、全然安心できる場所じゃないなんて……。
「あ、お風呂とかって……時間決めたりするんですか?」
「あー、そっか。……めぐみちゃん、鼻はええほうやんね?」
「え? はい、まあ犬系よりは劣りますけど……」
「ほな、入る前に匂い嗅いでチェックしてな」
「ええっ! そ、それだけですかっ」
「それだけでもバッティングする可能性、減るやろ? 今のところは男の子は焔くんだけやから、彼の匂い、覚えとったらええよ」
「覚え……」
警察犬じゃないんです、そんなの得意じゃないですよ……。
ちらりと食堂の方に目をやると、もう誰も座っていなかった。蜂谷さんの膳だけがぽつねんと置いてある。
「まあ、そういうことやから。よろしゅうね?」
「……はい」
ごめんなぁ、と両手をすり合わせる寮母さんに、わたしはこっそりため息を漏らすことしかできなかった。