4.実地研修……?
「あのっ、本当にいいんですか?」
ホテルのトイレで服装の最終チェックをしている蜂谷さんに何度目かの質問を投げかける。
前髪を綺麗にまとめた蜂谷さんは、鏡越しにわたしを睨みつけてきた。
「煩いわねえ。そんなこと言ってる間があるんなら、笑顔の一つでも練習したらどうなの? そんな泣きそうな顔で迎えられたらお客様が気の毒よ」
「でもっ……」
「大丈夫だって。ばれやしないわよ」
くすっと笑う彼女の笑顔は何かを企んでるようにしか見えない。
「じゃ、行くわよ」
「ま、待ってください」
さっさと出ていく蜂谷さんを慌てて追いかけると、蜂谷さんは同じ制服を着込んだガイドたちの一番後ろにしれっと加わっていた。
船に乗るお客様をお迎えする列のしんがりに並んだわたしは、ちらりと隣に立つ彼女の横顔を盗み見た。
次々と集まるお客様ににこやかに声をかけている蜂谷さんは、わたしに悪態をついたときとはまるで違う天使の笑顔をしている。
「ほら、ぼーっとしない」
こっちを見ることなく蜂谷さんはわたしに囁いてくる。あわててお客様のほうを向いて笑顔を返すけれど、他のガイドさんたちは気にしないのだろうか。
ちらりと居並ぶ他のガイドに目をやったけど、だれもわたしたちのほうを見ない。さすがはプロだ。
一か月の間は座学とマナーの訓練で、船に乗るのはそのあとって聞いてたのに。
お客様が全員乗り込んだところで、ガイドたちは船に乗り始めた。
蜂谷さんが乗ろうとタラップに足をかけたところでそのすぐ前に立っていたガイドの一人が立ちはだかった。
「蜂谷さん、今日のクルーにあなたの名前はないわよ。勝手に乗り込まないで」
「あれ、なんだ。ばれてた? ひむちゃんも人が悪いなぁ」
えへ、と笑いながら蜂谷さんは目の前のガイドに笑いかける。
ひむちゃん、と呼ばれた人は怒っているのだろう、柳眉を逆立てて睨みつけている。くねる茶髪に派手な色のリップ。でもすっごく綺麗な人だ。……くやしいけどさっちんとタメはるかも。
なんてぼーっと見てたら、わたしのほうをちらりと見た。その視線の鋭さと冷たさが胸に刺さる。視線は一瞬で外されたのに、蛇に睨まれたカエルよろしくわたしはその場で凍り付いた。
「新人連れて馬鹿な事してんじゃないわよ。……連れて帰って。あんたのおかげで出港が遅れたわ。社長には報告するから。始末書は自分で書きなさいね」
それだけ言うと、彼女はさっさと船に乗り込むとタラップを切り離した。
蜂谷さんはべぇ、と舌を出して見送った後、お客様に向けてにこやかな笑みを浮かべて手を振った。
「あんたも振んなさいよ」
小突かれてようやく動けるようになったわたしは、笑顔を張り付けて手を振る。船がすっかり遠くまで行ってしまうと、ようやく蜂谷さんは振っていた手を下ろした。
「あーあ、残念。……今日のツアーはお年寄りが多くてガイドも多いから、潜り込めると思ったんだけどなぁ」
「でも、予定外の乗員を乗せて万が一があったら……」
「そんなの、わかってるわよ。……あんた、ほんとにつまんない子ねぇ」
ちろりと流し目されて、わたしは言葉を詰まらせた。つまらないことじゃない。安全管理は何よりも大事なことだって加賀美さんにも叩き込まれた。万が一なんて考えたくないし、わたしだって水に落ちるなんてまっぴらだ。
でも、それを軽視してはいけない職業なんだって、受付のおばさんでさえ知ってるのに……。
「しゃぁない、帰るわよ。……あーあ、くそつまんない座学なんて止めちゃえばいいのに」
両手を空に向けて伸ばしながら、蜂谷さんはホテルのほうへ歩き出した。