3.代打の教官
「え? 加賀美さん、今日お休みなんですか?」
加賀美さんがお休みだと聞いたのは、初めての休みから数日経って、花の金曜日の話だった。
今週はずっと座学で、土日は加賀美さんがお休みだからわたしもお休みになると聞いていた。
リバークルーズなんて、本来は土日祝日が書き入れ時だ。それはよくわかっているし、この研修が終わったらシフトに組み込まれて、休みは曜日と関係なくなる。
加賀美さんもわたしの指導教官になったおかげで久しぶりに土日に休みが取れると喜んでいた。
今週末は特に予定もないし、飲みに行こうと誘われていたのだけれど。
目の前で眉根を寄せた受付のおばさまは「そーなのよお」と言葉をつづける。
出社の手続き……要するにタイムカードをがっちゃんこさせたところでこのおばさまにつかまった。
いつもなら挨拶を返すだけでじろっとわたしのほうを確認だけするだけなのに、今日は妙に口数が多い。
「もしかして、体調不良とかでしょうか」
「んー、電話の声はそんな感じじゃなかったわねえ」
電話で休むと伝えてきたんだ。しかも病気じゃないって……。
病気なら見舞いに行こうかとおもったけど、そうじゃないなら迷惑になるかな。
「まさかお身内に不幸とか?」
「それもないわね。元気のなさそうな声ではあったけど」
加賀美さんといえばはきはきときれいな言葉でしゃべるきれいなお姉さん、というのがわたしの印象だ。元気いっぱいではないけれど、時折張りのある声で喋られるとおもわず背筋がピンとなる。
その加賀美さんが元気がなさそうな声を出す、というのが想像できない。
「お局サマー。この子もらってっていい?」
不意に後ろから両肩にずっしり重いものが載った。頭の上にもなんだか硬くて重いものがある。
「あー、はいはい。おしゃべりで足止めさせちゃってごめんねぇ、萌ちゃん。今日の教官はその子だから」
「えっ」
お局様、と呼ばれた受付のおばさまが決まり悪そうに笑って受付ブースに戻っていった。わたしはおどろいて肩と頭に乗っているものをなんとか引きはがそうと体をひねる。
「それにしてもひよわな子ねぇ。ほんとにあんたやってけるの?」
加賀美さんの芯のある声と違って、艶のある声と呼ぶのがぴったりくる。
「あ、あの、すみません。……離してください」
「それに」
「きゃあっ!」
肩の上の重荷が消えてほっと息をしたのもつかの間、今度は後ろから太もものあたりをスカートの上からぐにぐにと揉まれる。せ、セクハラっ?
「ほっそい足ねえ。甲板の上で二時間踏ん張ってられるの? ふくらはぎもこんなだし」
「痛っ、や、やめてください」
ストッキング越しにぎゅうっと握りつぶされる。……揉んだなんてもんじゃない。すっごく痛かった。
「腕も細っこいし」
今度は制服の上から腕をがっちりつかまれ、ぐにぐに。いったい何なの、この人」
「ナイトクルーズは当分無理ね。こんな細腕で男に抱きつかれたら抵抗もできやしない。……ほんと、なんで採用になったのか不思議なくらい」
「え……」
あちこち触っていた手が離れて、わたしはようやくセクハラ行為の犯人に向きなおった。
そこには、頬の横でぱっつりと切り落とした薄茶色の髪の毛をふんわりと膨らませた、肌白で薄茶の目をした女性が立っていた。
身長はヒールを履いてわたしと同じぐらい。ということは少し低い。
制服を身に着けてはいるけれど、加賀美さんのように一分の隙も無いというわけではない。ジャケットの前は開けっ放しでタイは外したままなので、自然とその盛り上がった大きな胸が強調されている。
腰からお尻にかけては小さくて、ヒップのラインもぷりぷりしていてとても美しい。巨乳美尻美人とでも言おうか。あ、でもさっちんのほうがスタイルはいいみたい。
「あたしの検分は済んだかしら?」
「え、あ、ごめんなさい」
そんなつもりはなかったのだけれど、結構長い時間じろじろ見ていたみたい。
「ま、いいわ。今日お休みの加賀美の代わりにあなたの指導教官になった蜂ヶ谷容子。よろしく、めぐみちゃん」
「よろしくお願いします」
内心の動揺は抑えて、加賀美さんに叩き込まれた綺麗な礼をする。
「はいダメ」
「えっ……」
受付の横のスペースに立っているわたしと教官……蜂ヶ谷さんを、同じ制服を着た人たちがちらちら見ながら通り過ぎる。叱責されているのは丸わかりで、恥ずかしい。場所を変えてくれればいいのに、蜂ヶ谷さんはじっと腕を組んで立ち尽くしている。
「加賀美に叩き込まれてるにしちゃ、ずいぶんとひどい礼ね。あの子ったら何教えてんのかしら」
思わずかっと反論しかけて慌てて目を伏せる。
わたしの覚えがわるいのはわたしのせいだし、それを非難されるのは自業自得だ。でも、加賀美さんの教えかたが悪いせいじゃない。それを間違えないでほしい。
でも、ここで言い返したら、やっぱり加賀美さんの教育が悪いって言われそうな気がして、頭を下げる。
「申し訳、ありません」
「謝るってことは悪いことって思ってるのよねえ。研修に入って一か月? 二か月? それでこの程度じゃ見込みないわ。さっさとやめて田舎に帰れば?」
なんでここまで言われなきゃならないんだろう。それとも、これも研修の一部なんだろうか。
「容子ちゃん、その子入ってまだ二週間経ってないんだよ。勘弁しておやり」
受付のお局様が見かねたのか、社員さんもお客さんも途切れたところで口をはさんでくれた。
ちらりと顔を上げると、蜂ヶ谷さんの背後でお局様が中指を立てて顔をひどくゆがめている。
……あのハンドサインってなんのサインだっけ。今度教えてもらわなきゃ。
蜂ヶ谷さんはといえば、お局様の言葉に目を丸くした後、眉根を寄せてわたしを睨んだ。
「二週間経ってないのに加賀美が教官? ……ふぅん、そう。じゃああなた、『社長のお気に入り』なんだ。へーえ」
口調が変わったような気がした。わたしを見据える目も、かわいらしい女性のそれではなく、刺すような目で、纏う雰囲気さえ冷たい。
「えっ……」
「まあいいわ。今日一日だけだものね。仲良くやりましょう? 社長のお気に入りさん?」
そう言うと蜂ヶ谷さんはにっこり微笑み、先ほど見せた冷たい表情をかき消した。