Acht.取り引き
近頃、幼馴染みたちがおかしい。
というのも、例の新任教師がやって来てから、私の周りでは未曾有の出来事が立て続けに起こっている。
例えば、幼馴染みたちがあの新任教師にはあまり関わらないように、と不良たちに睨みを利かせていたり、例えば、あの新任教師には必要最低限逆らわないように、と私に言ってきたり。
……おかしいどころの騒ぎじゃないよね、これ。
おまけに授業中、あの男はちらちらと事ある毎に私を盗み見てくるもんだから、幼馴染みたちからの言いつけがあったとはいえ嫌気の差した私は、ただ今やつの授業をサボり中である。
仕方ないことなのだ、これは。
だってあの男、私が叩いたあの日以来、執拗に絡んでくるようになったのだ。
忠告なんてまるで無視。
怖いもの知らずというか、突き刺さるような幼馴染みたちの冷たい視線を浴びながらも、何かとかこつけて私に接触を図ってくる。
そのどれもが教師として私に関わってくるものだから、幼馴染みたちは何も言ってこない。
聞けば、かな~り我慢しているらしい。
……まあ、ここまで来れば自ずとあの新任教師の正体が見えてきちゃうよね~。
くわばらくわばら、面倒事が大嫌いな私は、あいつがこの学校からいなくなってくれるまで雲隠れでもしようかとつい考えてしまう。
この学校に入学した時点で、まともに卒業するなんてこと視野にないし。
幼馴染たちに強請れば、卒業資格など簡単に手に入るだろうから、今から引きこもりになったとしても何の心配もいらない。
うん、そうしよう。
一人結論を導き出した私は早速、今から家に帰ろうと昇降口に向かった。
教室にあるカバンには必需品と呼べるものは何一つ入っていないし、携帯は肌身離さず所持している。
この身一つで困ることはない。
そうだ、帰りに商店街にでも寄っていこうかなあ~、なんて呑気に考えていた私は、目の前に怖い顔のゆうちゃんが現れたことにもあまり動じなかった。
「姫……」
どうにも切羽詰まった様子で、あのいつも泰然としているゆうちゃんが珍しい。
どうしたの?何かあった?
そう問おうとしたところで、さらに奥からもう一人こちらにやって来るのが確認できた。
その瞬間、水を掛けられた気分になる。
「よお」
……そいつは、いけ好かない、あの新任教師だったから。
最悪な展開。
ゆうちゃんの何か言いたそうな、けれど口を閉ざしたままの様子から安易に想像できる。
ああ、私はマズいことをしてしまったのだと。
「てことで、俺が姫さんと仲良くしてもお前らは何も言えねぇわけだ」
「……」
「残念だったなあ。最後まで姫を守れなくて」
ククッ、と喉を鳴らして愉快げに笑う男に、ゆうちゃんは苛立たしげに目を細めるだけだった。
会話から察するに、この男とゆうちゃんたちは何かしらの駆け引きをしていて、そこに私が関わっているのも、そして私の行動のせいでゆうちゃんたちにとって最悪な事態を招いてしまったことも明瞭である。
「さて、姫。今から二人っきりで話がしたい。来いよ」
「……授業はどうしたんですか?」
「んなの自習だよ自習。ほら」
男が私の手を取って歩き出そうとするので、私は咄嗟にその手を払い、逃げる気はないと言ってやる。
まあいいか、そんな事を呟いた男はポケットに手を突っ込み、一人足を進めた。
私がその後を追うと、ゆうちゃんも無言で着いてくる。
しかし目的の場所であるのか来賓室に到着すると、男にお前は中に入ってくるなよと言われ、ゆうちゃんは眉間に皺を寄せながらもその指示に従った。
ゆうちゃんが不安そうだったので、入室する際に大丈夫の言葉の代わりに彼にキスをしておく。
……私からゆうちゃんにしたのは、初めてかもしれない。
声に出さずとも十分に私の気持ちは伝わっただろうが、それでもゆうちゃんは、いたたまれない様だった。
パタン、と無機質な音と共に扉が閉められる。
男は私にソファに座るよう促し、私も黙ってそれに従う。
「見せつけてくれるなあ」
向かいのソファに大仰に腰を下ろし、偉そうにふんぞり返った男は思いついたように口にした。
なんとも思ってないくせに、そうやってわざわざ言葉にする意図が分らない。
私は素っ気なく、何の用でしょうと尋ねた。
「……いいねえ。あんたを守るやつらが誰一人としていない今の状況で、いや、いたところで俺に手出しはできないだろうが……ま、そうやって気丈に振る舞えるとは、姫と呼ばれるだけのことはある」
可愛がられるだけの女なら、俺の顔を叩く度胸なんぞないか、とも男は付け加える。
私は分かりやすく眉を顰めた。
もしかしなくとも、私が手を上げたこと、まだ根に持っているのだろうか。
「姫さんよ、だいたい想像はついてるだろうが、まずは自己紹介を改めよう。
俺の名は間中一成で通ってるが、そいつは俗世のための偽名でな、本名は、椚木ってんだ。
椚木財閥──の総帥、ほら、テレビでよく見るたぬきジジイ、俺はあいつの末の息子にあたる。
これがどういうことか、賢いあんたなら分かるだろう?」
男はいつの間にか取り出した煙草にライターで火をつけ、口にくわえる。
煙草独特のこの臭いと紫煙が私は嫌いだ。
「あんたの幼馴染みも相当な権力と財力を持ってるようだが、束になったって流石に世界でも指折りの椚木には勝てねえ。
俺は三男に生まれたが、椚木の後継者である兄貴とは随分仲が良くてな、俺が頼めばあんたらの家共々社会的に抹殺することなんざ造作もない。
永原んとこのグループを潰すのはこちらとしても痛手になるから、まあ傘下に収める程度で済むだろうが、双子と倉田は裏の人間でもある。徹底的に叩いてやるつもりだぜ」
ふうん、と他人事のような声が漏れた私に、男は少しだけ目を見開く。
おいおい……口を動かさずともそんな呆れ声が聞こえた気がした。
「姫さん、話の趣旨を理解してんのか?俺の一声で、あんたの幼馴染みもあんた自身も、どうにでもなるんだぜ?」
理解はしてる。
けど、私にとっては至極どうでもいい話だ。
まるきり興味なさげな私の態度に、男は舌打ちをして、仕方なさそうに次の話題へと舵を切った。
「……あいつらは俺に逆らえないわけだが、ただ一つ、どうしても譲らないモンがあったんだよ。そう、姫さん、あんたとの個人的な接触な」
「ゆうちゃんたちとの賭けの戦利品が、それってこと?」
「話が早いな。別に力でねじ伏せても構わなかったんだが、俺は今のあんたを所望してる。後ろ盾も何もないあんたはそこらの小娘と同じになっちまうだろ、それじゃあつまらねえ。
それでやつらと賭けをした。あんたが教師としての俺に反抗的な態度を見せなければ、俺はあんたに一切関与しないと。
逆に、賭けの期間中あんたがいい子でいられなかった場合、俺とあんたは友好的な関係になれる」
何それ。
そんなこと初耳だし、何より死活問題も同然の賭けを、どうして本人の預かり知らぬところで話し合ってんだ。
ゆうちゃんたちも、この話を前もってしてくれていたなら、私だってこいつの授業をサボろうだなんて思わなかったのに。
ああ、私の意見はいずこ?
私に人権及び拒否権を強く希求します!
と、いうか……。
「友好的な関係、ね。貴方が言うと、随分と卑猥な響きに聞こえますけど」
「そりゃ自意識過剰だろ」
出会って数秒でいきなり押し倒してた輩が何をぬかすか。
私の物言いたげな視線に気づいたのか、男は肩をすくめる。
「保健室でのことは謝る。男を侍らす“姫”に興味があったんだよ。どんな尻も頭も軽い女かと思ったら、案外気高いもんだから驚いた。ま、高飛車なイメージまんまだったがな」
悪態をつかれるとばかり思っていたので、こうも素直に謝辞を述べられると対処に困る。
何か裏があるのでは?と思わずにいられないよねえ。
おまけに、褒め言葉としては受け入れにくい高飛車とか言われたし。
下心なくして“姫”に近づく者なんて限りなく無に等しい。
この男は、間違いなく自分の欲求を満たすために私に近づいてきている。
うん、断言できる。
「姫さん、あんたが大人しく俺と仲良くしてくれる限り、俺はあんたの大事な幼馴染みたちには手出ししない。それどころか、何か困ったことがあれば“椚木”が援助してやる。世知辛い世の中だ、お互い仲良く寄り添ってこうぜ」
「仲良く、ねえ……。具体的には?」
「そのままだよ。俺は姫と個人的によろしくやりたい」
「……」
ふう、と一呼吸おいて、私はその場から立ち上がった。
大人しく話を聞いてれば、くだらない。
───つまらない。
「……残念ですがその話、お断りします」
幼馴染みたちのもと培った極上の笑みを見せ、私は懇切丁寧に言い切った。
男が瞠目する様が少し愉快だ。
だってそうでしょ?
私の身は私のもの。
私が何に囚われるかは、自分で決める。
幼馴染みたちの無理強いだって言うなれば許容範囲に過ぎない。
本気で嫌だと思えば、何をしてでも拒否させてもらう。
それが私の信条、もといワガママとも言う。
「あんた、拒める立場じゃないって分かってんのか?」
「あら。おかしな事を言いますね、本人の許可なく賭け事の道具にした結果でしょう」
「……永原たちがどうなってもいいのか?あいつらは滅法あんたに尽くしてるらしいじゃねえか。それを仇で返すなんざ、あんたの気が知れないな」
えぇ~。
そういう他人の見聞を聞き及んだだけで自分の結論を出す人間の、なんと浅はかなことか。
「弱肉強食の世界ですもの、私の幼馴染みが潰されたのなら彼らはそれだけの存在だったということ。
分かりやすくて好ましいじゃないですか。私、好きですよ、強いものが弱いものを喰らう、階層性の習わし」
幼馴染みたちは私に、溺れるだけの愛をくれる。
対価は私の“自由”。
私だって、普通と名の付く女の子たちに憧れを持ったことがないと言えば、嘘になる。
普通に友達を作って、普通に恋をして、些細なことで悩んだり、仲の良い友人と喧嘩したり、仲直りして友情を深めたり、将来について夢を膨らませたり―――そんな、どこにでもあるような日常が眩しかった。
だからと言って幼馴染みたちと出会ったことを悔やむわけではないけど、もしもの世界を、ごく偶に脳裏に描いてしまう。
でもそれはあってはならないものだから、遠の昔に心の奥底にしまいこんだ。
誰にも見つからぬよう、奥深く深くに。
私がいなければきっと、彼らは生きてゆけないもの。
比喩でもなんでもない、ただの事実。
私は微笑みを崩さぬまま、ふと冷静になって考えた。
―――どうしてゆうちゃんたちは、この男との賭けを私に隠していたのだろう?
それも賭けの決め事だったのか、しかし幼馴染みたちが素直に規則に従事して勝負するはずもないことを知っている私としては、その可能性は有り得ないと思う。
策士のゆうちゃんがこうなるよう仕向けたのかもしれない。
でも、ゆうちゃんのあの、私とこの男が一緒にいるだけで今にも殺しにかかってきそうな鋭い目を見るに、今の状態は望んでないものの望まれたものなのだろう。
……あ~、そういうことね。
なんとなく理解できた私は、にっこり笑って、目の前の男に一つ提案してみた。
私、空気は読める子だよ、多分。