桑下の譚
楼桑村の劉家に身ぎれいな若い客が来たのは、涼風の吹く初夏の昼上がりの事だった。
若者の名は、劉亮、字(通称名)を徳然という。
三代前に楼桑村を出て涿県城内に移り住み、財を成した、楼桑村劉家の分家の嗣子である。
彼は本家の戸をたたかず、その東南の桑の樹の元に寄った。
樹は、根元から一丈半程(三m強)の所に、太い横枝を差し出している。
その上ではじける陽の光の中の一つの影を、彼は見上げた。
「叔郎!」
徳然は「影」に呼び掛けた。
するとそれはユルリと揺れ、グラと傾き、枝からゴロリと外れ、ゴウと風を切って落ち、ドンと音を立て、彼の目の前に「着地」した。
舞い上がる土埃の中で、悠然とあくびをしている又従弟に、徳然は呆れ顔で言った。
「その降り方は止めないか。心臓に悪い」
叔郎は、眠たそうに目を擦りながら、
「……叔父さん達の前ではやらないさ」
と答えた。
舞った土埃が二人の身体にまとわり着く。徳然は、服に着いた埃を叩いた。
「あそこで昼寝すること自体を止めたらどうだ? 本当に落ちては洒落にもならんぞ」
「嫌だ。この木は乗り心地が良いんだ」
「乗り心地?」
「この間、子敬叔父さんが来て言った。この樹の枝振りは、まるで羽葆蓋車のようだ、とさ」
「あの都かぶれの叔父さんがかい?」
徳然はわずかに眉を顰めた。
劉子敬は二人の従叔父だった。
決して悪い人物ではない。ただ、一つ悪癖がある。
彼は、若い頃に洛陽へ遊山した。
その時偶然、都大路で皇帝の行幸に遭遇した……と、彼は言う。
凛々しい執金吾(警視長官)が先導。よく練兵された近衛兵が続き、雅な調べに合わせて楽女舞姫が踊り行く。そして羽葆の付いた蓋馬車のきらびやかな飾り細工。御簾の奥には主上(皇帝)が在す……。
この光景を人に語るのが、彼の趣味である……こと有る事に、何度でも、しつこく。
一族の者はおろか、近郷近在の人々が皆、この話を知っている。そして、もう聞きたくないと願っていた。
「そう思って寝ると、良いユメが見られる」
叔郎は服の埃と、自身の頬を叩いた。軽い痛みとともに、眠気がすっと引いてゆく。
眠気覚ましの仕上げに大きく背伸びをしている叔郎を、徳然はまじまじと見た。
自分よりも三歳ばかり年下の少年が、時折己よりもずっと大人びて見えることがある。
たとえば、彼の瞳が何もない筈の天空を、じっと見つめている時などがそうだ。
そんな時の叔郎の、彼方を眺める視線は、徳然に茫漠とした不安と、漠然とした羨望とを抱かせる。
『いいユメ、か。コイツの事だ、きっと大きな希望なのだろうな。私の考えなど及ばない、とんでもなく大きな……。
そうして、いつかこいつは、その希望を叶えて、私の手の届かない所へ、独り、駆け上がって行くに違いない。そうなったら、きっと私の事など忘れてしまう……』
たくましい想像力から生まれた言い知れぬ虚しさが、徳然の心を捕えた。
「徳然兄、今日は急に呼び出してすまない」
運良く叔郎の唇が動いたので、彼は弟分に隙を見せずに済んだ。
「え? ああ……」
自分が抱いていた小さな嫉妬を圧し殺し、徳然は無理矢理平静を装った。
「一体何の用だ?」
「実は、元服の祝いをやろうと思って」
叔郎が満面に穏やかな笑みを浮かべた。
「元服? お前の、か?」
従兄の訝し気な反問に、叔郎は大きく頷いて答えた。
元服とは、ある程度の身分を持つ男子・士大夫の成人式である。数えで十五歳前後に行うのが普通だ。
この時、名を幼名である小字《こあざな》から、本名である諱に改め、通称となる字を付けるのがならわしだった。
徳然も一昨年元服して「亮」という諱を貰うまでは、「伯郎」と呼ばれていた。これは一番上の男の子、ほどの意味である。
彼の従兄弟の叔郎という名は、三番目の男の子、といった意味合いになる。叔郎は叔郎の父の長男ではあるが、この地の劉一族のこの世代では、おおよそ三番目の男の子だった。
さて、わざわざ改名するのには理由がある。
漢人は「言葉」や「名前」には『力』があるとする、いわゆる言魂信仰を持っていたのだ。
『力』は水のように、高い、すなわち強い所から、低い、すなわち弱い所へ流れてしまうと思われていた。
己よりも勝っている者に本名を呼ばれるのは構わないが、己よりも弱い者に連呼されては、『力』が逃げてしまう、という訳だ。
そこで、親や兄姉、あるいは身分が特段に高い者を除いて、本当の名前で呼ばぬようにして、普段は仮の名を別に用いる。
これが改名の理屈である。
徳然は目を見開いた。
「だってお前、今年十四になったばかりじゃないか!?」
「父が死んで以来ずっと、俺は、劉家の当主だ」
叔郎は力強く言う。
「例え単家でも、皇室に連なる名門の当主が、家督を嗣いで十三年にもなるのに、『子供』でいちゃ、まずいよ」
単家とは「勢力のない家」の意だ。
草鞋売りをしてようやく生計を立てている今の劉本家には、確かに勢いなどない。
有り体に言えば貧乏なのである。
「……それに遊学に出る前に元服しておいた方が、区切りもいいだろう?」
叔郎が胸を張った。
徳然は、思わず吹き出した。
又従弟の腕白振りは、親しくしている徳然の良く知るところである。
その腕白自身の口から遊学などという言葉が出てくるとは、終ぞ思いの寄らぬ事だった。
だから、つい正直に、彼は言ってしまった。
「へえ、お前にも学問をする気があったとはなぁ」
「笑う事はないだろう」
叔郎は少々不機嫌な声をあげた。
「一族を集めて盛大な祝いの宴を開くのは無理だけど、せめて徳然兄にだけは祝福してほしいから、ご馳走を作ってくれ、と母者に頼んだのに」
彼はぷいと後ろを向くと、ただ一人、わが家へ向かって歩き始めた。
「……いいさ。徳然兄、もう帰りなよ。遅くなると、あの恐い叔母さんが心配するだろうから」
大きな、だが幼い背中が、すねた口を利く。
徳然は慌てて彼の後を追いかけた。
「悪気はなかったんだ、許してくれよ。伯母さんの料理を、私にも食べさせてくれ!」
泣きついても、叔郎はへそを曲げたまま振り向きもしない。
そこで徳然は、彼の前に回り込んで、声を張り上げた。
「お前の学費も出してくれるよう父に頼んでやるから、機嫌を直してくれ!」
それは唐突な提案だった。
叔郎が大きく見開いた目を徳然の顔に向けると、彼はニッと笑って又従弟の両肩に手を置いた。
「涿郡の出で儒学者の廬老師が、州都で私塾を開いておられるのを知っているだろう? その塾が門下生を募っていてね。私とお前と二人して、そこに入門しないか?」
又従兄の提案は、単家の倅にとって願ってもない話だった。
が、叔郎は困惑した。
彼は顎を引いてうつ向き、己の大きな耳たぶを右の手指の先で摘んだ。……深く考え込むときに、叔郎の指先は、どういう訳か自然と耳元にゆくのだ。
大きく息を吐いた。
曾祖父の代に分かれた徳然の家は、叔郎の家とは全く家計を別にしている。縁などないと言われてもおかしくない間柄であった。
実際、徳然の母は貧しい「本家」との付き合いを快く思っていない。当主・劉元起の意向がなければ、嗣子の徳然が叔郎と交遊することもなかっただろう。
だが。
いかに元起が好人物でも、自分の子供ではない叔郎の、しかも何年続くかも判らない勉学の費用を、援助してくれるのだろうか。
それに、いくら草鞋を売って糊口をしのがねばならぬ暮らしぶりだとは言っても、皇室に連なる家柄という誇りがある。いや、意地がある。己の学問のために「他人」から援助を受けることは心苦しい。
答えることの出来ない又従弟の肩をぐいと掴むと、徳然は力強く説いた。
「母は反対するだろうが、父は出してくれる。父は、お前を高く買ってくれているからね。まるで口癖みたいに
『叔郎は並みの子ではない。一族の中で、あれが一番見込みがある』
と言っているんだ。毎日、私の顔を見る度に、だ。……比べられる方はあまりうれしくないけれど」
徳然の顔は笑みで満ちていた。うれしくないなどと言いながらも、まるで、自分が毎日褒められているようだった。
「本当に叔父御が俺の学費を出してくれると言うのなら、こんな嬉しい事はないよ。けれど……」
それでもまだ躊躇する叔郎の肩を、徳然は強く叩いた。
「自分に都合の良い『他人の親切』は、利用しなければ損なだけだ。ましてや、一族の親心だ。有り難く受けておけ」
随分と迷った後、叔郎はようやく笑った。
「有り難う」
それは、はにかみと寂しさと力強さが融合する、なんとも不思議な微笑だった。
叔郎が時折浮かべるこの微かな笑みは、なぜか他人に安堵感を抱かせる。
『きっと、父もこの笑顔に憑かれたんだろう。なにしろ私が魅かれるくらいだから』
徳然の口元も、自然とほころんでいた。
小さな風に乗って、子供の嬌声が聞こえた。
荒屋の厨房から、宴の気配が漂って来る。
徳然はそれを鼻孔の奥で感じ取ると、腹の虫を押さえつつ、改まった調子で叔郎に問いかけた。
「さて、宴を始める前に一つ聞きたい。元服するとなると、名を改め、字を付けねばならない。名付け親が必要なら、父に頼んでやるが?」
「申し訳ないけど、それは遠慮しておくよ」
叔郎は首を横に振った。
「実は亡き父が、生まれたばっかりの赤ん坊のこの俺に、立派な名前を遺してくれていてね。……立派すぎて、本人が悩んじまう位のを、さ。でも、その大層な名を名乗る決心が、このごろようやく付いたんだ。それに合うような字は、もう自分で考えたし」
「へぇ、どんな名だい?」
徳然が身を乗り出して訊く。
叔郎は嬉しそうに笑った。
「名はビ。字はゲントク」
「良い響きだ。で、どんな文字を書く?」
今まで劉叔郎と呼ばれていた少年は、長い腕を伸ばすと、中空に三つの文字を書いた。
『備 玄徳』
その瞬間、突風が吹いた。
少年の名を抱いた風は、桑葉の天蓋を揺らしながら、蒼天へと昇って行った。