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末弟

 閑話休題。


 劉叔郎の遠乗りは、日が落ちるころに終わる。

 彼は(ゆう)()に間に合うように、ちゃんと帰ってくる。

 それでも母親は、できることなら出かけないで欲しいと願い、もっと早く帰って来て欲しいと祈っている。

 彼がたいがい怪我を負ってくるからだ。

 あるいは狩りで、あるいは(けん)()で。(あお)(あざ)・擦り傷・刀傷……命に別状のなかった(きず)が、彼の体を埋め尽くしている。


 ところが。

 その腕白の様子が、ここ数日の間、すこしおかしい。

 彼はあの日、城下での商売から戻ってから、一度も外出しなかった。

 家の中にいないと思うと、東南の桑の樹上にいる。太い横枝に身を任せ、じっと(まぶた)を閉じている。

 日頃の活発さがある故、静かにしていれば静かにしていたで心配になる。

 母親は、


『どこぞ具合でも悪いのかしら』


 などと心配をしていた。


 城下の市からの帰りにあの駅舎に出逢ってから数日が経ってた、ある朝。


 叔郎は織りかけの(むしろ)の前に座っていた。

 手は、動いていた。しかし、心ここにあらずといった風で、目は窓外の蒼天(そうてん)の中を泳いでいる。


 母親の不安は、ついに声になった。だがそれは、穏やかな、何気ない言葉だった。


阿叔あしゅくや。何か考え事かい?」


 「阿~」というのは、日本語の「~ちゃん」に相当する、子供の愛称である。

 叔郎は青空の映り込んだ瞳を母に向けた。


「ねぇ母者。もし俺が長いこと家を空けたりしたら、やっぱり寂しいかい?」


 おどおどとした口調。

 真剣な瞳。


「……空けるつもりなの?」


 母親は、寂しそうな、仕方がなさそうなまなざしで、一人息子を見つめた。

 叔郎は慌てて頭を振った。


「いや、もしもの話だよ。……何でもない」


 彼は微かに笑むと、窓の外に目を移した。


 桑の枝々は、その身を萌え立つ若緑で装っている。夏が深まれば葉は大きく開き、濃い緑の薫風を発するようになる。

 そうして、自然の木でありながら、巨大な建造物のように、(そう)(てん)を覆い尽くすのだ。


 叔郎は桑の樹の枝振りをしばらく眺めていた。やがて、ぼんやりとした目が、その根元に転じられた。

 直後、彼は立ち上がったかと思うと、窓枠に手をかけた。

 太い幹に、いつの間にやら荒縄が巻き付けられている。

 縄の先に、一頭の山羊がつながれている。

 山羊の脇に、一人の童子が立っている。


「阿叔、どうかしたの?」


 母の問いかけの語尾が消えぬ間に、叔郎は窓から外へ飛び出していた。

 駈けながら怒鳴る。


「坊主! お前、李(せん)(せい)の子だろう!?」


 童子は身を引きながら、小さく頭を振った。


「違う。オラはお師匠サの()()だぁよ」


 自称『李定(りてい)の弟子』は、童子とは思えないはっきりとした口調で答えた。

 だが、発音にひどい(なまり)がある。

 どうやら、童子はかなり北方の、国境近くの出身らしい。


「弟子、だって!?」


 叔郎は童子の両肩をつかんで、(わめ)く。童子はおびえながら、大きく(うなず)いた。


「お師匠サから便りを預かってきたンだ。劉サに渡すようにって」


「便り?」


 童子が恐る恐る差し出したのは、相当にくたびれた絹の切れ端だった。

 この頃はまだ紙は普及しておらず、文字は木や竹を薄く細く切った板の(もっ)(かん)(ちく)(かん)か、絹の布に書かれていた。

 李定からの便りは、着物の袖であったモノに書かれている。着古した無地の袖口を、叔郎は数日前に見た覚えがある。

 そこに、食い詰め易者が書いたとものとは思えない、かっちりとした(ぼく)(せき)があった。

 

   劉叔郎は高祖の風を有すなり。

   之は無より身を起こし、一業を成す相なり。

   一業の大小、我は知らず。

   さりとて、父祖の家名を再興せんとは、

   夢々思し召さぬよう、申し上げるものなり。

   其れすなわち吉なり。

            李定、天命を拝し、記す


(おお)()()だなぁ」


 叔郎は鼻で笑った。しかし眼は笑んでいない。瞳の奥に、何かを深く考えている気配がある。


()()()ねぇ」


 童子は(ふところ)を探って、なにやら書き込まれた別のぼろ布を出した。わずかな文字を必死に読みながら、言う。


「お師匠サから、劉サんちに、桃か、柳か、桑の木が生えてたら、褒めレって言われた」


 叔郎は、彼らの上に影を落とす、桑の巨樹を見上げた。


とうりゅうそうは、トウリュウソウに通じるから、縁起が悪いって話なら、よく聞くけど?」


「凡人の家ならば凶なれど、貴人の家ならば吉なり」


 童子は師父の筆跡をたどたどしく読み上げた。


「坊主のお師匠は、余っ程俺を貴人に仕立て上げたいらしいな」


「坊主じゃねェ。カンてぇ名があらぁ」


 童子は穴のあいた(くつ)(さき)で、地べたに『()』と書いた。


中原(ちゅうげん)なら、「コウ」と読む』


 痩せても枯れても衰退しきっていても、血筋を辿(たど)れば皇室に行き当たる家柄だ。漢帝国の中心地、いわゆる「中原」で使われている言葉を、叔郎は知っていた。

 そして「北の最果て」に住まう漢族の言葉が、境を接する胡族(こぞく)……つまり外国……の言葉の影響を受けていることを、同じ地に住まう彼が知らぬはずがない。

 叔郎は笑った。

 決して(ちょう)(しょう)ではない。

 久方ぶりにお国訛りを聞き、思わずほころぶ……そんな笑みだった。


「……ともかく、お前さんのお師匠に伝えとくれ。『我、貴人の道を知らず』とね」


「ムリだよ」


「なぜだい?」


「お師匠サは、もう居ねぇ。これが()()だ」


 耿童子は鼻水をすすり上げると、師父の形見を握り締めた。

 不安の色濃い瞳が、叔郎を見上げている。

 叔郎は、今は気丈にしているが、一寸(ちょっと)したきっかけさえあればすぐにも泣き崩れそうな幼子の、小さな肩を抱くと、我が家の窓に目を向けた。

 そこに、母の笑顔があった。


「阿叔、お前いつだったか、兄弟が欲しいと言っていたね」


 劉叔郎は大きく頷くと、「弟」の小さな体を抱き上げて、母の元に走った。


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