桑の樹縁起
劉叔郎の住まいは、幽州にあった。現在の中国では河北省と呼ばれている辺りである。
漢帝国当時の行政区分は、現代人から見ると少々ややこしいやもしれない。
帝都・洛陽以外の国土は十三の「州」に分割されている。また「州」の中に「国」が含まれている場合もある。
「州」とは現代で言うところのと「道府県」……時代かがった言い方なら「藩」のようなものである。「国」というのは、王族に与えられた領地のことを指す。
「州」は複数の「郡」で構成され、「郡」にはいくつもの「県」がある。そして、「県」は多くの「町・村」で成り立っている。
また、古代中国に独特な事なのだが、都市は高い塀と強固な門に囲まれた、一つの城塞を成している。
塀の中に人々のくらす町並みがあり、更に城壁を持つ行政府の建物がある。「城下町」ならぬ、「城内町(そんな言葉はないけれども)」であった。
城壁の外側には、農地が広がっている。
農民達は朝、城の中から田畑に出勤し、夕刻城門が閉まる前に城内の町に戻るのだ。
だが農地の開拓が進むと、この形態が崩れる。城を中心とした同心円のように開拓地は広がり、その最前線はどんどん城から遠離って行く。そういった城から離れた田畑には出勤しきれなくなる。
こうして、田畑の周囲に住む者が現れ、そこが集落となり、やがて「村」ができあがる。
行政の最小単位、つまり、役所と役人が置かれているのは「県」で、村々の長はそのあたりの豪族や、古老達が勤めるのが常であった。
さて。
現在の河北には中華自民共和国の首都・北京があるが、当時の幽州に東漢帝国の首都・洛陽があるはずもない。
ここは北の果ての一地方都市に過ぎないのだ。僻地呼ばわりされて当然の田舎だ。
そんな田舎都市の更に片田舎……涿郡涿県の城壁の外……の小さな村が、叔郎の故郷である。
村の名を「楼桑村」という。
その縁起は、古い。
西漢の七代・武帝の兄で、劉勝という貴族が、この地にほど近い中山国(河北省南部)に封じられた頃にさかのぼらねばならない。
劉勝は、判っているだけで百二十人余の男子をもうけたという。伝説的好色家だ。
同数の姫君があったとして二百四十人、名の残っていない子供達がいると見て、合わせて二百五十~三百人の子沢山である。
英雄色を好む。だが色好みが全て英雄とは限らない……という見本のような人物だった。
その百二十人の内の一人、劉貞が『陸城亭候』という爵位を与えられ、涿郡の片隅に屋敷を構えた。
この劉貞、些細な事から庶人に落とされた。つまり皇族の身分を剥奪されて、一般人の扱いにされたのだ。
……おそらくは、朝廷側から陥れられでもしたのだろう。
いかに大漢帝国といえども、百二十人×二+αの王族を無駄に養えるほど、裕福ではない。
さりとて他に行く宛もなく、彼はそのまま郡内に住み着いた。
土地屋敷が総て召し上げられずに済んだのは幸いだったが、なにしろ収入が無い。
劉家は、家財や土地を少しずつ切り売りする筍生活を余儀なくされた。
幾星霜かが過ぎて、劉家の財産は、傾がった荒屋と、その東南にそびえる「劉貞が植えた」という一本の桑の樹だけとなった。
おおよそ二百年の樹齢を重ねた樹は、天を突くほどに高く、天を覆うほどに枝を張っていた。枝振りを遠く眺めると、背の高い建物のように見えた。
桑の楼……以前は「陸城村」とか「劉家荘」とか呼ばれていた村は、いつしかそう呼ばれるようになっていた。
……と、いうのが楼桑村の縁起である。
劉家の物語は、もう少し続く。
劉貞から十世下った頃の当主・劉雄は、人柄よく、学があるというので、推挙され、県令(県の管理職)にまで上った。
その矢先、一人息子の弘が早世した。
気落ちした雄は、病を得て亡くなる。
妻も、呆気なく後を追った。
哀れなのは、十六で嫁ぎ、十七で子を産み、十八で寡婦となった劉弘の嫁である。彼女は以来、喪服をまとって暮らした。
極貧の中に残された彼女は、縄をない、筵を織り、草履を編んで、必死に働いた。
その筵や草履を、亡き夫の忘れ形見の男児が、街で販ぐ。
そんな小商いで、劉家は糊口を凌いでいた。
……その男児の名を、劉叔郎という。
熹平三年、西暦でいえば一七五年の晩春。
叔郎は数えで十四歳の元気な……有り体に言えば腕白な……少年であった。
もっとも、日頃の彼はよく母を手伝う、そして商売上手な孝行息子である。
しかし、仕事をしなくてもよい日には、痩せ馬にまたがって、母親に行く先を告げずに遠乗りに出かけてしまう。
これは、余談になるのだが……。
漢代以前の史書を読む中で、「騎馬、あるいは騎射(馬上から矢を射ること)に優れる」と注釈の付いている人物とぶつかったなら、その者は現代人の想像以上の乗馬技術を持っていた、と確信していい。
何故なら、漢の鞍には鐙がないのだ。つまり、馬上で手を放して足を踏ん張ることができない。
腿で馬の背を締めてバランスを取らねばならないのだから、並みの平衡感覚・運動神経では、馬に乗ることすらできないのだ。
漢民族が鐙を開発できなかったのは、彼らに騎馬戦という戦闘方式の概念がなかったためである。
馬に荷車のような戦車を引かせ、そこに御者と戦闘員を二・三人乗せて戦う、戦車戦が主流であった。
東漢(後漢)末には、北方の遊牧民達と主に「戦争」という名の交流が持たれ、その影響で、騎兵という部隊も編成されるようになってはいた。
それでも、鐙付きの鞍が全土に広がるまでには到っていなかった。
当然、劉叔郎の痩せ馬に、そんな「最新兵器」は備えられているはずがない。