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花奴隷調律譚  作者: 駒草
26/27

第26話


 兆候は、確かにあったのだ。

 ここ数日、私が紅茶を口にする量は目に見えて減っていた。いつもなら午後に必ず淹れ直させるはずの美しい陶器のカップには、冷めきった琥珀色の液体がそのまま残されていることが増えていく。

 夜、花たちがそれぞれ微睡みに落ちた後も、私はアームチェアに腰掛けたまま、暗がりのなかで微動だにせず、ただ押し寄せる倦怠感に耐えていた。

 

 だが、花たちは気づかなかった。あるいは、あまりにも完璧な私の温和な支配に甘え、気づかないふりをしてくれていたのかもしれない。

 その平穏が瓦解したのは、初夏を予感させる、ひどく穏やかな朝のことだった。

 

 意識が浮上した時、私は自分が書斎の冷たい床の上に容赦なく頽れていることに気づいた。指一本動かすこともできず、ただぼんやりと開いた扉の隙間を見つめていると、いつも通りに目を覚ました純白の少女――ブランが通りかかるのが見えた。

 隙間から中を覗き込んだ瞬間、ブランの胸元の白い花が一斉に、恐怖でその弁を閉じる。

 

「主人様――っ!」

 

 ブランの悲鳴が、静かな屋敷の空気を切り裂いた。

 またたく間に、すべての花たちが書斎へと集まってくる。ルージュが迷いのない動きで私を抱き起こして居間のソファへ運び、ノワールが空気を換えるために窓を開け放つ。

 ヴィオレットは迷わず薬草棚へ飛びつき、ジョーヌは震える手で水を汲みに走り、アズールが静かに私の手首を取り、脈を確かめる。ローズは扉の前で小さく立ち尽くしたまま、不安げに桃色の花を揺らしていた。

 ただドレだけが、ソファに横たえられた私の顔を、冷徹なまでの真剣さで見つめている。

 

 自分の呼吸が浅く、顔が土色に変色し、指先が氷のように冷え切っているのが自覚症状として伝わってきた。胸元に手を当てずとも、体内で放出される魔力の流れが異様なほどに乱れ狂っているのが分かる。

 彼ら八本の接続が、絡まった無数の茨のように、私の魔力回路を全方位から締め上げ、吸い尽くしているのだ。

 

「魔力の過負荷だ」と、ドレが低く押し殺した声で告げた。

 

「八人と同時に、深く接続したままだ。人間の魔力回路が耐えられる許容量をとうに超えている」

「どうすればいい」

 

 ルージュが焦燥を隠そうともせずに聞いた。

 

「接続を切るか、完全に休ませるかだ。私たちとの繋がりを一時的に断てば、魔力の過剰消費は止まる」

 

 居間に、重苦しい沈黙が流れた。

 やがて、その張り詰めた空気の中で、私は重い睫毛を微かに震わせ、瞼を薄く開いた。八対の瞳が一斉に自分を覗き込んでいることに気づき、しばらくぼんやりと天井を見つめていたが、ゆっくりと小さく、自嘲気味に息を吐いた。

 

「……大袈裟だよ、みんな」

「大袈裟なものか」

 

 ルージュが即座に私の言葉を遮った。

 

「接続を切れ。今すぐにだ」

「嫌だ」

 

 自分の声は掠れ、ひどく弱々しかったが、その拒絶の意志だけは不気味なほどはっきりとしていた。

 ルージュが忌々しげに額を押さえる。ブランは泣き出しそうな顔で私の冷たい手を両手で握りしめた。

 

「主人様、でも、このままじゃ……!」

「大丈夫だよ、ブラン」

「大丈夫なわけがないだろう」

 

 ドレが静かに、しかし断固とした響きで割り込んできた。私は視線を、ゆっくりと金色の花持ちへと向けた。

 

「このまま接続を続ければ、お前の魔力回路は内側から焼き切れる。二度と魔法が使えない、ただの肉塊になるぞ」

「それでも嫌だ」

 

 私の頑なさに、ドレは少しだけ間を置いた。指示を拒絶する私に向け、ドレは凍りついた食卓を覗き込むような声音で問いかけてくる。

 

「なぜ切らない。接続を一時的に切ったところで、私たちはどこにも行きはしない」

「……本当に?」

 

 その呟きは、自分でも情けないほど小さく、今にも壊れそうなほど脆かった。

 八人が、一瞬で静まり返る。

 私は天井を見つめたまま、ぽつり、ぽつりと不格好に言葉を紡いだ。いつもアームチェアから彼らを引き連れ、余裕たっぷりに世間を嘲笑っていた時の声など、どこにも出せなかった。

 

「接続を切ったら……みんないなくなる気がするんだ」

「いなくならない!」

 

 ブランが、握った私の手にぐっと力を込めた。

 

「いなくならないよ、主人様。私、絶対にどこにも行かない!」

 

 ルージュが腕を組んだまま、低く、しかし地響きのような確かな声で続けた。

 

「俺たちはここにいる。接続という枷があるから縛られているんじゃない。ここが、俺たちの家だからいるんだ」

 

 私の瞳が、微かに潤んで揺れながら、ルージュを捉えた。

 

「……君たちは、本当にそう思ってくれているのかい?」

「主人が、壊され、捨てられた俺たちをここへ連れてきた」

「私は、ただ壊れた奴隷を蒐集するのが好きなだけさ」

「知っている」


 ルージュは少しだけ視線を彷徨わせ、不器用に口を開いた。


「それでも、俺たちはここへ来た。ここで、あなたの傍で、のんびり生きることを覚えた。その事実に嘘はない」

 

 私は、静かに目を閉じた。

 誰も口を開かない。暖炉の火がパチパチと優しく爆ぜる音だけが、居間を満たしていく。

 その時、私の傍らで脈を測っていたアズールが、静かにその手を離した。いつもの穏やかな微笑を湛えながらも、その瞳には澄み切った決意が宿っている。

 

「……主人様」

 

 アズールの鈴を転がすような涼やかな声に、全員の視線が集まった。

 

「完全に断つのが怖いのでしたら……接続を、ほんの少しだけ『透き通らせて』はいかがですか?」

「透き通らせる……?」

「はい。絆という名の鎖を解くのではなく、その密度を極限まで薄く、清らかな水流のように整えるのです。繋がりは残したまま、貴方の回路を流れる負荷だけを、私が美しく鎮めて差し上げましょう。それなら、繋がりが消えるわけではありませんから、怖くはないでしょう?」

 

 私は驚いてアズールを見た。


「君が、そんな高次の魔力干渉を……?」

「お忘れですか? 私は貴方の傍で、ずっと貴方の魔力の揺らぎを見つめてきました。貴方に壊れてほしくないのは、私も同じです」

 

 アズールはそう言うと、私の胸元へしなやかな指先をかざした。彼の空色の花が、深海のように深く、しかし天上の如く澄んだ青い光を放ち始める。

 

 アズールの魔法が、冷え切った潤滑油のように八本の接続へと染み込んでいくのが分かった。私の回路を締め上げていた茨の棘が、アズールの青い光に触れた途端、一本も損なわれることなく、驚くほど滑らかで細い「光の糸」へと変質していった。

 私の頬に、少しずつ生気が戻ってくる。アズールの制御は完璧だった。八人分の接続を維持しながら、その総流量を私の限界値以下へと、精密に、そして優雅に絞り込んでいく。

 

 ジョーヌは涙を拭いながら笑っていた。ルージュが深く安堵の息を吐き、ノワールが目を閉じて漆黒の花から深い安らぎの香気を放つ。ヴィオレットが胸元で祈るように手を組み、アズールが静かに微笑み、ローズが「よかった」と、たどたどしく呟いた。

 アズールがそっと手を離し、額の汗を拭う。

 

「しばらく、安静にしていろ」

 

 ドレが、私のバイタルを管理しきったアズールの肩を大きな手でぽんぽんと労いながら、私を見下ろした。

 

「命令するのかい? 主である私に」

「ああ、そうだ。今回はその青い奴の妙技に免じて、大人しく従え」

 

 私は、小さく笑った。今まで彼らの誰も聞いたことのない、すべての強がりと肩の力が完全に抜けた、自分でも驚くほど柔らかな笑い声だった。


 それから三日が経った。

 私は珍しく大人しくソファに身を横たえていた。八人が代わる代わる様子を見に来ては、新しい紅茶を置いていき、毛布の乱れを直していく。アズールとドレが朝と夜に魔力の流れを確認し、接続が細い状態を維持しているかを厳しく確かめていた。

 だが、四日目の朝。ドレは私の顔を見た瞬間に眉をひそめた。

 

「接続を、勝手に強くしたな。アズールの調整を弄ったのか」

 

 私は紅茶のカップから、何食わぬ顔で視線を上げた。


「おはよう、ドレ。朝から厳しいね」

「『おはよう』ではない。夜中にやったのか。せっかくあいつが極細の糸に整えたというのに」

 

 ドレが頭を抱えるように額を押さえた。ルージュが窓辺から鋭い視線で振り返り、ノワールが薄く目を開ける。

 

「……なぜそんなことをした」

「目が覚めたから、なんとなくさ」

「なんとなくで自分の魔力回路を傷つける人型がどこにいる」

「いるよ。目の前にね」

 

 私が平然と言ってのけると、ドレは深く、呆れ果てたような息を吐いた。

 ブランが心配そうに私の顔を覗き込んできた。


「主人様……どこか、不安だったの?」

 

 私は答えなかった。ただカップを置き、気まずそうに窓の外へ目を向ける。

 その時、ローズが私の隣にするりと座り、小首を傾げた。

 

「夜中、主人、起きてた」

「……見ていたのかい、ローズ」

「うん。なんかね、ドレとローズの方ばっかり、じーっと見てた」

 

 居間が、水を打ったように静まり返る。自分の耳の付け根が、見る見るうちに赤くなっていくのが分かった。

 

「き、気のせいだよ」

「気のせいじゃない」

 

 ローズは嘘をつかない。記憶が曖昧な彼女は、ただ世界を鏡のように映し出す。私の高慢な言い訳をする隙は、完全に潰されてしまった。

 ドレが私の真ん前に立った。

 

「正直に言え。なぜ私とローズの接続だけを、特に強くした」

 

 私はしばらく黙り込み、窓の外の庭を見つめていた。春の柔らかな光が、庭に咲く花々を均等に照らしている。

 

「……君たちは、来て日が浅いからね」

「それだけか」

「日が浅い子は、まだ根が浅いんだよ。ふとした拍子に、風に吹かれていなくなってしまうかもしれない。そう思うと……」

「いなくならないと言っただろう」

「でも!」

「『でも』ではない。同じことを何度私に言わせるつもりだ」

「何度言われたって、怖いものは怖いんだよ」

 

 私は、ぽつりと言った。それはやはり、あの朝に彼らに見せてしまった、仮面の下の小さな本音だった。

 ドレは少し間を置いた。それから、私の前に静かに膝をついた。

 

「一度だけ、完全に切れ」

「……嫌だ」

「短い時間だ。そして、接続が切れても私たちがまだここにいることを、お前のその目で確認しろ」

「嫌だと言っているだろう」

「怖いのは分かる。だが、確認しなければ、お前は一生怯えたままだ」

 

 私はドレを睨むように見つめたが、ドレは微塵も目を逸らさない。その胸元の金色の花が、静かに開いている。

 

「……どのくらいの時間だい」

「一分だ。それも、全員のを同時に切る」

「全員……っ!?」

 

 私は息を呑んだ。しかし、周りにいた花たちは誰一人として反対しなかった。ただ静かに私の決断を待っている。

 やがて、私は諦めたように小さく頷いた。

 アズールが静かに指を鳴らすと、彼が管理していた光の糸が、一斉にその輝きを消した。

 次の瞬間――八本すべての接続が、完全に途切れた。


 私の体から、花たちの魔力の気配が一切消失する。世界に、たった一人きりになったような絶対的な孤独。私の五感から、彼らの存在を証明する魔法の温もりが消え去る。


 しかし、ドレは動かなかった。ルージュも、ノワールも。

 ブランも、アズールも、ヴィオレットも、ジョーヌも、ローズも。

 八人の花冠たちは、誰一人として席を立とうとせず、ただそこに当たり前のように佇んでいた。

 

 私は、一分が経過してもしばらく呆然としたまま、何も言えずにいた。それから、ひどく乾いた声で口を開いた。

 

「……今なら、逃げられるよ」

 

 ドレが怪訝そうに眉を動かした。


「逃げられる?」

「今は接続が完全に切れている。君たちは自由だ。私を置いて出て行く絶好のチャンスだったのに、なぜ間抜けに座っているのさ。君たちがここにいるのは、私の魔力で繋ぎ止めているからだ。その枷がなくなれば、誰も私なんか……」

 

 私の声は、必死に平静を装っていた。しかし、膝の上に乗せた両手は、白くなるほど固く握りしめられている。

 私の花束たちは、それ以上言葉を返さなかった。

 ただ静かに、一歩、また一歩と私の元へと歩み寄ってきた。

 

 ドレが私のすぐ隣に腰を下ろし、ルージュが反対側にどさりと腰掛ける。ノワールが背後を固めるようにその巨躯を寄せてきた。

 それだけではない。

 ブランが私の正面に膝をつき、その冷たい手を上からぎゅっと包み込んだ。ヴィオレットがそっと背中に手を添えて温もりを伝え、アズールが穏やかな微笑みとともに肩を抱き寄せる。ジョーヌが私の足元に頭を寄せるようにして丸くなり、ローズは私の膝に「えい」とあどけなく頭を乗せた。

 大柄な戦闘型も、可憐な少女たちも、全員が垣根なく、私を物理的に、そして圧倒的な質量で完全に包囲し、閉じ込めたのだ。

 

 純白、深紅、漆黒、薄紫、空色、琥珀、桃花、黄金。

 八色の花々が、それぞれの誇り高い香気をいっせいに放ち、私の五感を甘やかに狂わせていく。

 私は、圧倒されながら全員を順番に見つめた。

 

「な、何か言ったらどうなんだ……」

 

 アズールが、私の肩に添えた手に微かに力を込め、耳元で穏やかに囁いた。

 

「これが『言葉のいらない繋がり』ですよ、主人様」

 

 ドレが、ふっと可笑しそうに息を漏らす。

 

「お前には、まだ言葉が必要か?」

 

 私は、何も言い返せなかった。ただ、震える手で静かに、彼らとの接続を繋ぎ直した。

 その回路に流れ込む八本の糸は、もう私を締め上げる茨ではなく、優しく包み込む寝床のようだった。

 

「主人様、もう意地悪なこと言わないで!」

 

 ブランが怒った顔をしてみせる。

 

「意地悪じゃない。本当のことを言ったまでさ」

「本当のことなんかじゃない! 主人様が、ただ怖がって拗ねてるだけだもん!」

 

 私は、子供のように気まずくなって目を逸らした。

 

「主人、怖かったの?」

 

 膝の上のローズが顔を覗き込んでくる。

 

「……別に」

「嘘。ローズ、知ってる。主人の顔、すごく怖そうだった」

 

 私は、今度こそ完全に沈黙した。

 長い、長い時間が流れた。暖炉の火が優しく爆ぜる音だけが、変わらずに私たちを包んでいた。

 やがて、私は深く、胸の奥の澱をすべて吐き出すように息を漏らした。

 

「……怖かったよ」

 

 誰も、それを笑わなかった。

 

「接続が切れた瞬間、本当に怖かったんだ。みんないなくなって、私はまた一人になるんだと思った」

「いなくならなかっただろう」

 

 ドレが、静かに、しかし断固とした声で言った。

 

「次も、その次もいなくならない。私たちは今、自分の意志でここにいる。私がここを選んでいるんだ。お前の魔力のせいでも、義務でもない」

 

 私はドレを見た。ドレはまっすぐにそれを受け止めた。金色の花が、深く、確かな信頼の香気を放っている。

 私の瞳が、じわりと潤んだ。しかし、主としての最期のプライドが勝ったのか、私は涙を流さなかった。代わりに、フンと小さく鼻を鳴らした。

 

「……本当に手強いね、君は」

「お互い様だ」

 

 ルージュが呆れたように低く鼻を鳴らし、ノワールの漆黒の花が、深い夜のような安らぎの香気を漂わせた。

 九つの花の香気が混ざり合い、居間を心地よく満たしていく。

 私は全員の体温に埋もれたまま、安堵したように天井を見上げた。

 

「……接続、もう少し細くしておきますね」

「今度は夜中に勝手に弄るなよ」

「……善処するよ」

「善処ではない。絶対に『するな』だ」

「分かったよ」

 

 私は、また小さく笑った。今度は、どこにも強がりのない、心の底からの本物の笑い声だった。

 窓から暖かな春の光が差し込んで、寄り添い合う九色の花を、等しく優しく照らしていた。

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