第16話
深夜、私の書斎の重い扉が、音もなく開いた。
ランプの放つ昏い黄金色の光だけが円形に落ちる漆黒の部屋に、淡い水色のドレスが、まるで夜霧の精霊のように滑り込んでくる。アズールだった。
彼女の胸元に咲く青い花は、夜の闇を吸ってなお、自ら妖しく微光を放っていた。
かつて彼女の肉体を蝕んでいたはずの毒の黒ずみは薄れ、いまや蘇った無数の脈管が、ランプの橙色に透けて、淫らなほどに美しい琥珀色の網目を、白い皮膚の底に浮かび上がらせている。
いつもの、仮面のように完璧な「聖女の微笑み」をその薄い唇に貼り付けて、彼女は私の書斎机の前へと佇んだ。
「こんな夜分に、どうしたんだい」
私は羽根ペンを置き、椅子に深く背を預けた。
「眠れなかったのです」
嘘ではないのだろう。しかし、わずかに開いた熱い唇の隙間から漏れる吐息は、湿った熱を孕んで小さく震えていた。
「それで?」
アズールは少し間を置いた。静寂のなか、滑らかな絹の衣擦れの音が、耳腔を直接撫でるように生々しく響く。
彼女はいつもより一段低い、甘く、鼻腔に抜けるような声で言った。
「主人様は、こういうのがお好きでしょう」
細く白い指先が、ドレスの肩紐に掛けられる。すっと吸い付くように下ろされた布地の下から、ランプの光を吸って、冷たい陶器のように滑らかな、丸みを帯びた肩が露わになった。
鎖骨のくぼみに沿って、深く、残酷に根を張った青い花が、彼女の秘められた脈拍が高まるにつれて、じわりと濃厚な香気を放ち始める。
私はしばらく、その肢体を無言で眺めた。
計算されている。だが、完璧ではない。アズールの剥き出しの鎖骨が、緊張で強張って細く浮き上がっている。ドレスの布地を握りしめる指の爪は、圧迫されて哀れなほど血の気が引いていた。
何より、その聖なる微笑みの端が、引き攣るように硬い。
「よく分かっているじゃないか」
私は、その歪な美しさに加虐的な愉悦を覚えながら、それを認めた。
「ただ」
立ち上がり、ゆっくりと彼女との距離を詰める。床を踏みしめる私の気配に、アズールは動かなかった。逃げる身のこなしもせず、ただ柔らかな喉元を差し出す生贄のような、無抵抗な姿勢を保っている。
しかし、近づくにつれて、彼女の豊かな胸元が、浅く、乱れた呼吸で激しく上下するのが見て取れた。
「君はまた、何かを捧げようとしているね」
アズールの微笑みが、肉体の内側から湧き上がる動揺で僅かに歪んだ。
「……それの、何が」
「悪いとは言っていない」
私は彼女の滑らかな肩紐には触れず、代わりに人差し指を、青い花弁の鋭い縁へと近づけた。
肌の産毛が触れ合うかという、息ひとつ分の極限の距離。
「ただ、私は聖女が欲しくて君を買ったわけじゃない。覚えているかい」
「……覚えています」
吐き出された声が、私の指先をかすめて熱を伝える。
「君が毒を飲んでいたのも、信者のためだったね。自分を削り、美しい肉体を痛めつけることで、誰かの役に立つことで……初めて、その存在を許された。自己犠牲という名の、甘美な病に溺れていたんだ」
アズールは答えなかった。
しかし、彼女の胸元の青い花が、恐怖の引き攣りのようにきゅっと内側へ縮こまった。
張り詰めた薄い花弁が、私の指先の放つ気配に耐えかねるように細かく、激しく戦慄く。図星を突かれた肉体の、哀れなほどの自白。
「今夜も同じだよ、アズール。君は私を喜ばせようとしてここへ来た。それ自体は正しい。でも動機の根っこに、まだあの忌々しい施設がある」
「……では、お断りですか」
声はどこまでも穏やかだったが、その底には、拒絶を恐れる爪が肉を抉るような、微かな傷ついた震えが混じっていた。
「断らないよ」
私は囁きながら、今度は指先を花弁の表面に、本当に軽く、羽毛のように触れさせた。
その瞬間、アズールの全身が、電流が走ったように小さく跳ねた。
冷たかった彼女の肌が、羞恥の熱でじわりと内側から火照り始める。
「ただ、順番が違う。君が差し出す前に、まず私が取る。その違いが分かるかい?」
返事はなかった。ただ、衣服の下のしなやかな肢体が、私の一挙手一投足に支配されているかのように固くなっていた。
私は彼女の青い花の芯に向けて、魔力を一本の極細い糸として浸透させた。温かくも、冷たくもない。
ただ脳髄を深く痺れさせるような、静かな、しかし抗えない波長だけを選ぶ。アズールの体が僅かに震えた。
「香りを出してごらん」
「……どうやって」
「毒を出すのと同じ要領だよ。ただ、毒ではなく、君自身のものを」
アズールの端正な眉が、苦悶に似た形にかすかに寄せられた。
聖女として、彼女は長年自分の身体を摩耗させ、成分を引き出すことだけに肉体を調教されてきた。しかしそれはいつも、外側の誰かのためだった。信者の病を癒すため。実験施設で数値を記録させるため。肉体を便利な道具として差し出すことで、初めて彼女は生を許されていた。
「分かりません」
掠れた、素直な声だった。その唇が、かすかに戦慄いている。
「そうだね」
私は緊迫した花弁から指を離し、代わりに、ドレスを握りしめていた彼女の手首を静かに掴んだ。
引き寄せるのではなく、ただその脈打つ熱を確かめるように、肌と肌を繋ぐ。
「では、私が嗅ぎたいから出す、ということにしよう。それなら君にも理由ができる」
アズールは私を見上げた。微笑みが貼り付いたままだが、その奥の瞳が、漆黒の夜の湖のように激しく揺れていた。
「……それは、屁理屈ではないですか」
「そうだよ」
私は冷たい笑みを深めた。
「でも君はまだ、自分のために肉体を動かす練習が足りない」
「練習……ですか」
「当分は、私の欲しがりを踏み台にして練習しなさい。私は構わないから」
アズールは長い沈黙の後、ゆっくりと、諦めたように長い睫毛を閉じた。喉が、かすかに上下した。
自分のために生きろと言われたことはない。欲しがれと命じられたこともない。ただ誰かに癒しを、毒を、奇跡をと、それだけを求められてきた。
――私の欲しがりを、踏み台にしていい。
それは命令でありながら、どこまでも甘やかな猶予だった。
役に立たなければ殺されるという、彼女の肉体の最奥に刻まれた恐怖を、静かに否定する声。
アズールの指先から、ゆっくりと力が抜けていく。
胸元の青い花が、困惑するように小さく震えた。
何かが、彼女の頑なな肉体の奥底で、さらさらと解けていく音がした。
次の瞬間。
肉の檻がほどけるように、青い花弁が、音もなく大きく、狂おしいほどに開花した。
刹那、濃厚な香気が一気に溢れ出し、書斎の空気を侵食する。
それは人を害する毒ではなかった。深い夜の底に湧き出る、冷たく澄んだ水のような、しかしその奥に悍ましいほどの生々しい熱を持った香り。
「……これが」
彼女の薄い胸元が、香りを吐き出す運動で大きく波打つ。驚いたような、己の肉体に戸惑ったような声。
「これが、私の……」
「そうだよ」
私は彼女の手首を握ったまま、その瑞々しい香りを、肺の最深部まで深く吸い込んだ。
「素晴らしい。これが欲しかった」
アズールはしばらく、自分の花から溢れ続ける芳醇な香りの中で、微熱に浮かされたように立ち尽くしていた。
捧げたわけでもない。奪われたわけでもない。ただ、自分という存在の証明が、そこに咲き誇っていた。
やがて彼女は、ランプの光の中で静かに微笑んだ。
「……おやすみなさい、主人様」
「おやすみ、アズール」
扉が静かに閉まった後も、私は部屋に残された青く甘美な香気の中に、しばらくひとりで囚われていた。




