第九章 最後の舞台
甘粕正彦の死は、予想通り上海に大きな波紋を投げかけた。
日本軍は激怒し、犯人の引き渡しを要求した。フランス租界当局は板挟みになり、国民党政府は日本との外交問題を恐れて杜月笙に圧力をかけた。上海は一触即発の緊張状態に陥った。
川島芳子は計画通り、私の亡命を手配した。皮肉なことに、甘粕を失った日本軍は、私の「予知能力」により強い関心を示すようになったのだ。彼らは私を日本に連れて帰り、対中工作に利用しようと考えていた。
最後の夜、私は杜月笙に別れを告げに行った。彼は書斎で一人、窓の外の夜景を眺めていた。上海の灯りが宝石のように輝いている。
「行くのか」
彼は振り返らずに言った。
「ええ」
「戻ってくるな。ここはもう、お前のいる場所じゃない」
彼の声には深い寂しさが込められていた。
「一つだけ教えてくれ。お前は一体誰なんだ?」
私は長い間考えた。そして、できるだけ真実に近い答えを選んだ。
「私は……時の流れに迷い込んだ旅人です。そして、あなたと過ごした時間は、私にとって最も貴重な宝物でした」
杜月笙は振り返り、私を見つめた。その瞳には、抑えきれない感情が渦巻いていた。
「俺も同じだ。お前がいなければ、俺はただの暴力団のボスで終わっていただろう」
私は彼に近づき、そっと頬にキスをした。最初で最後の愛情表現。
「あなたは上海の皇帝になります。そして、いつの日か、新しい時代の扉を開くでしょう」
それは予言でもあり、願いでもあった。
翌朝、私は川島芳子の手引きで日本の豪華客船「浅間丸」に乗り込んだ。表向きは、日本軍に協力する中国人エージェントとしての渡航だった。
船室で一人になった時、私は改めて自分の選択について考えた。上海を離れることで、私は歴史から身を引くことになる。これから起こる日中戦争、太平洋戦争、そして中華人民共和国の成立。私はそれらの大きな流れを見守ることしかできなくなる。
だが、それでよかった。私は歴史学者として、過度な介入は避けるべきだと理解していた。甘粕の排除は必要だったが、それ以上の介入は危険だった。
甲板に出て、遠ざかっていく上海のスカイラインを見つめた。黄浦江に浮かぶ船、租界の西洋風建物、そして中国人街の雑然とした家々。全てが金色の朝日に照らされて輝いている。
魔都上海。この美しく、危険で、そして魅力的な都市で過ごした数ヶ月は、私の人生で最も劇的な時間だった。
船が上海港を離れる時、私は小さく手を振った。杜月笙に、花影に、そして沈麗琳の魂に向けて。
私の上海での冒険は終わった。だが、新たな人生が始まろうとしていた。
日本に着いた後、私は川島芳子の予想を裏切った。軍の施設に収容される前に、私は巧妙に脱出したのだ。麗琳の身体能力と、私の知識を組み合わせて。
私は新しい身分を作り上げた。戦争で家族を失った中国系日本人という設定で、小さな町で隠棲生活を始めた。
そこで私は喫茶店を開いた。上海で学んだ中国茶の知識と、麗琳の美貌を活かして、文化人たちが集まる洒落た店を作り上げた。
時々、上海から戻ってきたという商人や外交官が店を訪れることがあった。彼らから聞く上海の近況は、私の心を複雑にした。杜月笙の勢力拡大、日中関係の悪化、そして迫り来る戦争の足音。
1937年、日中戦争が始まった。1941年、太平洋戦争が勃発した。1945年、日本が敗戦した。そして1949年、中華人民共和国が成立した。
私はそれらの歴史的瞬間を、一般市民として体験した。特別な知識を持ちながらも、普通の人として生きることを選んだのだ。
1950年代、ある日の夕方、一人の老人が私の店を訪れた。見覚えのある顔だった。
杜月笙だった。
彼は日中戦争の混乱の中で上海を離れ、香港に移住していた。そして今、病気療養のために日本を訪れていたのだ。
彼は私を見ても、何も言わなかった。ただ、コーヒーを飲み、新聞を読み、そして静かに立ち去った。
テーブルの上に置かれた新聞の端に、小さな文字でメッセージが書かれていた。上海皇帝の遺言として、香港の新聞に匿名で寄せられたという形で。
「ありがとう」
それが彼との最後の接触だった。彼はその年のうちに香港で病死した。上海皇帝の静かな最期だった。