第八章 復讐の代償
甘粕正彦が上海に戻ってきたのは、十月の肌寒い夜だった。
私は杜月笙の情報網を使って、彼の動向を逐一監視していた。甘粕は日本領事館の秘密会議に参加するため、一週間の予定で上海に滞在することになっていた。
彼の宿泊先は虹口の日本人街にある高級旅館「扶桑館」だった。厳重な警備が敷かれ、直接の接触は困難だった。私は別のアプローチを選んだ。
まず、川島芳子への工作から始めた。私は海上花を通じて、彼女に偽の情報を流した。甘粕が満州での任務中に、芳子の過去の工作活動について詳細な報告書を作成し、彼女の失脚を狙っているという内容だった。
芳子は最初、その情報を疑った。だが、私は巧妙に証拠を捏造し、彼女の疑心暗鬼を煽った。偽造した文書、買収した関係者の証言、そして何より、甘粕の過去の行動パターンとの整合性。全てが芳子の不安を増大させた。
一方、甘粕に対しては、より直接的な手段を用いた。私は麗琳の身分を使って、彼に接近することにした。
その夜、私は扶桑館の近くの茶屋で、偶然を装って甘粕と遭遇した。麗琳の記憶の中にある彼の好みを思い出し、彼が必ず立ち寄るであろう場所で待ち伏せしたのだ。
「まさか……麗琳?」
甘粕は私を見て、明らかに動揺した。彼は麗琳が死んだと思っていたのだ。
「はい、お久しぶりでございます」
私は麗琳の記憶を頼りに、彼女の話し方を再現した。
「君は生きていたのか……いや、でも君は確かに……」
甘粕は混乱していた。彼は麗琳を殺したという確信があったからだ。
「あの時、あなたに撃たれて重傷を負いましたが、奇跡的に命は取り留めました」
私は嘘をついた。甘粕の罪悪感を刺激するために。
その夜、私は甘粕と二人きりで話をした。茶屋の個室で、過去の思い出を語りながら、私は巧妙に情報を探った。
「あなたは今、どのようなお仕事を?」
「それは……軍事機密だ」
「川島芳子様とご一緒されているとか」
甘粕の表情が変わった。
「なぜ芳子の名前を知っている?」
「上海では有名な方ですから。美しく、知的で、そして危険な女性だと」
私は芳子について、あえて曖昧な表現を使った。甘粕の想像力を刺激するために。
「彼女があなたの足を引っ張ろうとしているという噂もありますが……」
「何だと?」
甘粕は身を乗り出した。
「詳しくは申し上げられませんが、ある筋からの情報では、芳子様があなたの満州での活動について、否定的な報告を本国に送っているとか……」
それは巧妙な偽情報だった。甘粕の疑心暗鬼を煽り、芳子との対立を誘発するための嘘だった。
数日後、私の工作は効果を現し始めた。甘粕と芳子の間に亀裂が生じ、彼らは互いを疑うようになった。日本軍内部での彼らの立場も微妙になり、上海での活動に支障が出始めた。
だが、私の真の目的は別のところにあった。甘粕への直接的な復讐。私は彼を罠にかける計画を実行に移した。
私は甘粕に、重要な情報があると偽って、人気のない倉庫街での密会を提案した。国民党内部の極秘情報を売りたいという申し出だった。
甘粕は罠だと疑ったが、情報の価値に魅力を感じて会うことにした。彼は用心深く、数人の部下を連れてきた。
倉庫街での対決。月のない暗い夜だった。
私は一人で現れた。麗琳の記憶にある、彼女が最後に着ていた白いチャイナドレスを身に纏い、復讐の女神として甘粕の前に立った。
「君は一体何者だ? 麗琳は死んだはずだ」
甘粕は銃を抜いていた。彼もまた、何かを察していたのだ。
「私は沈麗琳の怨念です」
私は静かに答えた。
「あなたに愛され、裏切られ、殺された女の魂です」
その時、倉庫の周囲から杜月笙の部下たちが現れた。甘粕の部下たちは既に始末されていた。
甘粕は完全に包囲されていた。
「これは罠だったのか」
「ええ、復讐の罠です」
私は懐からピストルを取り出した。それは麗琳が復讐のために用意していた武器だった。
「待て! 俺を殺しても、日本軍との戦争になるだけだ」
「構いません。あなたのような人物がいる限り、戦争は避けられないのですから」
私は引き金に指をかけた。だが、その時、杜月笙が現れた。
「待て、麗琳」
彼は私の手を止めた。
「お前が撃つ必要はない。お前の手を血で汚させるわけにはいかない」
杜月笙は甘粕に向き直った。
「甘粕正彦、お前の罪は重い。上海の平和を乱し、無実の女性を殺害した」
銃声が響いた。しかし、それは私の銃からではなく、杜月笙の銃からだった。甘粕の胸に赤い花が咲く。
甘粕は倒れる間際、私を見つめて呟いた。
「麗琳……すまなかった……」
それが彼の最期の言葉だった。
復讐は完了した。だが、その代償は想像以上に大きかった。甘粕の死は、日本軍の上海工作が一時混乱し、関東軍内部の粛清を招くことになった。上海の政治情勢は不安定になり、新たな混乱の時代が始まろうとしていた。
私は倉庫の外で、夜空を見上げた。復讐を果たした今、私の心は空虚だった。麗琳の怨念は晴らしたが、それで何かが解決したわけではなかった。
杜月笙が私の側に近づいてきた。
「後悔しているか?」
「いえ……でも、これで終わりではないことは分かっています」
「そうだ。これは始まりに過ぎない。我々は大きな嵐の前に立っている」
その夜、私たちは上海の運命について語り合った。日本軍の報復、国民党と共産党の対立、そして迫り来る世界大戦。全てが上海に集約されようとしていた。
私は歴史の転換点に立っていた。復讐を果たした今、新たな使命が私を待っていた。