第六章 三つ巴の情報戦
杜月笙の釈放後、上海の権力構造は微妙な均衡を保ちながらも、水面下では激しい駆け引きが続いていた。黄金栄、杜月笙、そして川島芳子を背後にした日本軍。三つの勢力が複雑に絡み合う情報戦の時代が始まったのだった。
私はその中で、単なる杜月笙の参謀という役割を超えた活動を開始した。海上花での人脈を活用し、独自の情報網を構築し始めたのだ。
花影は最初、私の活動に困惑していた。
「麗琳、お前は一体何をしているんだい? 杜旦那様の庇護を受けているのに、なぜまた海上花に顔を出すんだ?」
「母様、私は故郷を忘れていません。それに、ここには貴重な情報が集まります」
実際、海上花は情報の宝庫だった。政府官僚、外交官、軍人、商人。あらゆる階層の男たちが集まり、酒に酔って秘密を漏らしていく。私はそれらの情報を収集し、分析し、杜月笙に報告していた。
だが、私の真の狙いは別のところにあった。歴史の流れを、可能な範囲で良い方向に変えること。そのためには、より大きな視点で政治情勢を把握し、必要に応じて介入する必要があった。
ある夜、私は重要な情報を入手した。国民党内部で、共産党員の大規模な粛清が計画されているという情報だった。これは後に「白色テロ」と呼ばれることになる弾圧の前兆だった。
歴史的には、この弾圧で多くの有能な知識人や革命家が命を落とすことになる。私は、少しでも犠牲者を減らしたいと思った。
私は杜月笙に提案した。
「共産党員の中にも、将来的に重要な役割を果たす人物がいます。彼らを全て敵に回すのは得策ではありません」
「具体的には?」
「秘密裏に、一部の重要人物を上海から脱出させる手助けをするのです。将来への投資として」
杜月笙は私の提案を検討した。彼は政治的な先見性に長けており、私の論理を理解した。
「誰を救うつもりだ?」
私は慎重に人選した。歴史上、後に重要な役割を果たすことになる人物たちの名前を挙げた。作家の茅盾を国外脱出直前の知識人として、劇作家の田漢を1927年末の弾圧余波で逮捕される可能性がある人物として、そして周恩来の指示を受けた若き活動家を救出対象として。
「彼らは将来、中国の文化と政治に大きな影響を与えます。今救っておけば、後に恩を売ることができるでしょう」
秘密の救出作戦が始まった。杜月笙の組織を使って、指名手配される前に重要人物たちを上海から脱出させる計画だった。
だが、この作戦は川島芳子の注意を引いた。彼女は日本軍の工作員として、中国の政治情勢を監視していた。共産党員の逃亡を手助けする勢力があることに気づいたのだ。
川島芳子は再び私に接触してきた。今度は、より直接的なアプローチで。
深夜、私が海上花からの帰り道、突然黒塗りの自動車が私の前に止まった。後部座席から芳子が姿を現した。
「お久しぶりね、沈小姐」
彼女は私を車に乗せ、人気のない倉庫街へと連れて行った。
「あなたが共産党員の逃亡を手助けしていることは分かっている」
芳子の声は冷たかった。
「なぜそんなことをするの? 杜月笙は国民党の支持者のはずでしょう?」
私は慎重に答えた。
「政治的なバランスを保つためです。一方的に共産党を敵に回すのは危険です」
「それとも……あなた自身が共産党のスパイなの?」
それは恐ろしい疑いだった。もしそう思われたら、私の命はない。
「そんなことはありません。私は政治的な信念は持っていません。ただ、生き残るために最善の道を選んでいるだけです」
芳子は私を見つめ、その真偽を測ろうとした。
「あなたは本当に謎めいた女ね。でも、これだけは言っておく。日本帝国の利益に反する行動を続けるなら、私たちは容赦しない」
それは明確な警告だった。
翌日、私は杜月笙に状況を報告した。
「川島芳子が動き出しました。我々の救出作戦は中止すべきかもしれません」
だが、杜月笙は意外な反応を示した。
「いや、続けろ。むしろ、これは日本軍に対するメッセージになる」
「メッセージ?」
「俺たちは日本の傀儡ではないということだ」
救出作戦は続行された。だが、それは同時に日本軍との全面対決を意味していた。
数日後、上海の政治情勢は急激に悪化した。国民党の共産党弾圧が本格化し、街には血の匂いが漂い始めた。深夜の銃声、消えていく人々、恐怖に怯える市民。上海は戦場と化しつつあった。
私たちの救出作戦も最終段階に入った。最後の標的は、周恩来の協力者である若き活動家だった。彼は既に国民党に追われており、隠れ家を転々としていた。
作戦の夜、私は直接現場に向かうことにした。杜月笙は反対したが、私は彼を説得した。
「この活動家は極めて警戒心が強い人物です。見知らぬ男たちが迎えに来ても、罠だと思って逃げてしまうかもしれません。女性の私が行けば、警戒心を解けるかもしれません」
深夜の上海。私は男装をし、杜月笙の部下二人と共に活動家の隠れ家に向かった。場所は中国人街の奥にある古い民家だった。
だが、私たちは罠にかかっていた。川島芳子が私たちの動きを察知し、日本軍の特務機関と共に包囲網を敷いていたのだ。
隠れ家に着いた時、既に周囲は敵に囲まれていた。銃撃戦が始まった。私は杜月笙の部下たちに守られながら、必死に活動家を探した。
彼は民家の地下室に隠れていた。私が彼に接触した時、彼は最初警戒したが、私が杜月笙の使いであることを告げると、状況を理解した。
「なぜ杜月笙が私を助けるのか?」
「将来への投資です」
私は簡潔に答えた。
「今は敵同士でも、いずれ中国のために協力する日が来るかもしれません」
活動家は私の言葉を理解した。彼は政治的な先見性に長けた人物で、杜月笙の意図を察したのだった。
私たちは地下の下水道を通って脱出した。上海の下水道システムは複雑で、熟知した者でなければ迷子になってしまう。だが、杜月笙の組織は街の隅々まで知り尽くしていた。
夜明け前、私たちは無事に港に到着した。そこには小型の蒸気船が待機していた。活動家は船に乗り込み、上海を後にした。
作戦は成功した。だが、その代償は大きかった。川島芳子は私の正体により深い疑いを抱くようになった。そして、日本軍との対立も決定的なものとなった。
私は歴史の分岐点に立っていた。このまま杜月笙と共に上海に留まるか、それとも別の道を選ぶか。その選択によって、私の運命だけでなく、上海の未来も変わるかもしれなかった。