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第五章 東洋のマタ・ハリ

 新たな脅威は、思いがけない形で現れた。


 ある秋の午後、海上花に一人の客が現れた。男装の麗人。短く刈り込んだ髪、仕立ての良い西洋式スリーピース・スーツ。そしてその瞳は、見る者を射抜くように鋭かった。


 彼女は自らを金璧輝と名乗った。だが私には分かっていた。彼女こそが後に「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれることになる、清朝の皇女にして日本のスパイ、川島芳子その人であることを。


 川島芳子は、中国名を愛新覚羅・顕玙といい、清朝の粛親王の娘として生まれた。幼少期に日本に送られ、川島浪速の養女となった彼女は、日本の軍国主義教育を受けて育った。美貌と知性を兼ね備え、多言語を操り、男装も女装も自在にこなす彼女は、日本の対中工作の切り札として活動していた。


 1928年の時点で、彼女は二十歳そこそこ。北京での工作を終えて上海に潜入したばかりだった。


「あなたに興味があるの」


 芳子は流暢な北京語で言った。私は杜月笙の屋敷の応接間で、彼女と向かい合って座っていた。


「杜月笙を裏で操っている謎の女占い師。その正体を確かめに来たわ」


 彼女の存在は、私にとって極めて危険だった。川島芳子は単なるスパイではなく、優秀な分析官でもあった。彼女なら、私の正体を見破る可能性があった。


 私は麗琳の記憶を頼りに、花魁としての優雅な振る舞いを演じた。


「占い師などと、大層なお名前をいただいて恐縮です。私はただの花魁にすぎません」


「謙遜しないで。あなたの『予言』のおかげで、杜月笙は短期間で莫大な富と権力を手に入れた。そんな偶然はありえない」


 彼女との対話は、まるで薄氷の上を歩くような緊張感に満ちていた。彼女は私の嘘を全て見抜いているかのようだった。


 私は逆転の発想を試みた。歴史知識を逆手に取り、彼女が関わった過去の事件を、さも占いで知ったかのように語って見せたのだ。


「あなたは……北京で、あるロシア人将軍の暗殺に関わられましたね」


 川島芳子の目に、微かな驚きの色が浮かんだ。それは秘密中の秘密で、ごく限られた人間しか知らない情報だった。


「そして、北京でのロシア人将軍暗殺……張学良に関する情報を、日本軍に流されました」


 今度は明らかに動揺した。これらの情報は、日本の軍事機密に属するものだった。


「面白い。あなたは本当に未来が視えるらしいわね」


 芳子は冷静さを取り戻し、不敵に微笑んだ。


「それなら、私の将来も占ってもらいましょうか」


 これは危険な質問だった。川島芳子の運命を私は知っていた。彼女は戦後、漢奸(売国奴)として中国当局に逮捕され、処刑されることになるのだった。だが、そんなことを言うわけにはいかなかった。


「あなたの未来は……混沌としています。多くの男性があなたを愛し、多くの国があなたを利用しようとする。しかし、最終的にあなたは……」


 私は言葉を濁した。


「最終的には?」


「故郷の土に還ることになるでしょう」


 それは婉曲な表現だったが、芳子には通じたようだった。彼女の表情が一瞬曇った。


「興味深い占いね。ところで、私にはあなたに提案があるの」


 芳子は私に協力を持ちかけてきた。日本の関東軍が計画している満州での謀略に力を貸せと。


「大日本帝国と手を組めば、あなたをこの小さな上海から解放して、もっと大きな舞台で活躍させてあげるわ。アジア全体を舞台にした、壮大なゲームに参加しない?」


 甘い誘惑だった。だが私は断った。歴史の流れを知っているからこそ、日本の軍国主義がこの後どれほどの悲劇を生むかを私は知っていた。


「申し訳ございませんが、私は政治には関わりたくありません」


「残念ね」


 芳子は冷たく微笑んだ。


「敵に回すには惜しい才能だわ。でも、あなたがそう選んだのなら仕方がない」


 彼女は立ち上がり、部屋を出て行こうとした。だが、ドアの前で振り返った。


「一つだけ忠告してあげる。杜月笙は所詮、上海の一地方ボスにすぎない。これから始まる嵐の前では、木の葉のように吹き飛ばされてしまうわ。賢明なあなたなら、もっと強力な後ろ盾を見つけるべきよ」


 それは脅しでもあり、最後の勧誘でもあった。


 芳子が去った後、私は深い不安に襲われた。日本の特務機関が私をマークしているということは、これからより一層危険な状況に置かれるということを意味していた。


 その日の夜、杜月笙に報告した。


「川島芳子が接触してきました」


 杜月笙の表情が険しくなった。


「何と言っていた?」


「日本軍への協力を求められましたが、断りました」


「そうか……」


 彼は深く考え込んだ。


「これで我々は、黄金栄だけでなく、日本軍とも敵対することになったな」


 その時、屋敷の執事が慌てて書斎に入ってきた。


「旦那様、大変です! フランス租界の警察が屋敷を包囲しています!」


 黄金栄の反撃が始まったのだった。フランス租界の華人探偵長としての権力を使い、杜月笙を法的に追い詰めようとしていた。


「罪状は何だ?」


「阿片密輸の容疑です」


 それは事実だった。だが、上海では阿片取引は半ば公然と行われており、黄金栄自身も深く関わっていた。これは政治的な弾圧に他ならなかった。


「麗琳、お前は裏の通路から逃げろ」


 杜月笙は私に命じた。


「あなたはどうするのです?」


「俺は正面から堂々と出ていく。逃げれば罪を認めたことになる」


 その夜、杜月笙は逮捕された。だが、彼には切り札があった。国民党幹部とのパイプと、フランス租界内部にも彼の協力者がいたのだ。


 三日後、杜月笙は釈放された。罪状不十分ということになったが、実際には政治的な圧力によるものだった。


 だが、この事件で私は重要なことを悟った。上海の権力構造は、私が思っていた以上に複雑で不安定だった。そして、私の存在が、その均衡を崩す要因になりつつあった。


 私には新たな戦略が必要だった。受け身の立場から脱却し、より積極的に歴史の流れに関与する時が来たのかもしれない。


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