第四章 上海皇帝のゲーム
杜月笙の屋敷での生活は、海上花とは全く異なる体験だった。
彼の屋敷は上海でも有数の豪邸で、フランス租界の一等地に建つ三階建ての洋館だった。西洋風の外観に中国風の内装を施した、東西文化の融合を体現する建物。庭園には池と築山があり、四季折々の花が咲き乱れている。
私には専用の部屋が与えられた。二階の南向きの部屋で、大きな窓からは庭園が一望できる。調度品は全て最高級品で、明代の古典家具から西洋のアンティークまで、贅の限りを尽くしたものだった。
だが、これは黄金の檻でもあった。杜月笙の庇護は絶対的だったが、同時に私の行動は常に監視されていた。彼の部下たちが交代で屋敷の警備に当たり、私が外出する際には必ず護衛が付いた。
それでも、この環境は私にとって理想的だった。上海の権力中枢にいる杜月笙の側にいることで、私は歴史の最前線を観察できた。そして、必要に応じてその流れに影響を与えることも可能だった。
杜月笙は私を正式な参謀として扱うようになった。毎朝、彼の書斎で前日の報告を受け、その日の方針を決定する会議が開かれた。参加者は杜月笙の最も信頼する部下たちばかりで、私はその中で唯一の女性だった。
「麗琳、昨夜の情報では、国民党左派の汪精衛が重慶から上海に向かっているという話だが、どう思う?」
杜月笙の質問に、私は冷静に答えた。汪精衛の動向は、中国の政治情勢を左右する重要な要素だった。
「汪精衛は蒋介石との権力闘争に敗れ、やがて日本との協力路線を選択することになります。今の段階では距離を置くべきでしょう」
「では、我々はどちら側につくべきか?」
「蒋介石です。彼が最終的に中国を統一します。ただし、共産党との対立は激化しますから、両方に対する保険も必要です」
私の助言は、常に長期的な視点に基づいていた。1928年から1949年の中華人民共和国成立まで、中国がどのような道筋を辿るか、私は全て知っていた。その知識を使って、杜月笙が最も有利なポジションを取れるよう導いていた。
杜月笙の勢力拡大は目覚ましかった。阿片取引での利益を軍資金に、彼は政界、財界、そして軍部にまで影響力を拡大していった。蒋介石との関係も強化され、国民党の有力な後援者としての地位を確立した。
だが、それは同時に敵を増やすことでもあった。特に黄金栄との対立は深刻化していた。彼は自分の配下だった杜月笙が急速に力をつけ、自分を脅かす存在になったことに強い危機感を抱いていた。
ある夜、杜月笙が重要な取引のために外出した隙を狙って、黄金栄の刺客が屋敷に侵入した。彼らの標的は私だった。
私は書斎で翌日の会議の資料を整理していた。窓の外では秋の虫が鳴いており、平和な夜だった。だが、その静寂を破って、微かな足音が聞こえてきた。
護衛たちは既に始末されていた。廊下に血痕が点々と続いている。私は慌てて書斎の隠し扉を探した。杜月笙が「緊急事態の際には使え」と教えてくれた秘密の通路だった。
刺客たちが書斎に踏み込んできた時、私は既に壁の隠し扉から逃走していた。秘密の通路は地下の貯蔵室に続いており、そこから庭園の池の畔にある東屋へと抜けることができた。
だが、刺客たちも手慣れたものだった。彼らは屋敷の構造を熟知しており、すぐに私の逃走ルートを予測した。
庭園での追跡劇。月光に照らされた池の周りで、生死を賭けた鬼ごっこが始まった。私は麗琳の身体能力を頼りに、築山を駆け上がり、竹藪に身を隠し、必死に逃げ回った。
その時、屋敷の門から杜月笙の車が猛スピードで入ってきた。彼は取引先で異変を察知し、急いで戻ってきたのだった。
銃撃戦が始まった。杜月笙の部下たちと黄金栄の刺客たちが、庭園で激しい撃ち合いを繰り広げる。私は東屋の陰に身を潜め、その様子を見守った。
やがて銃声が止んだ。杜月笙の勝利だった。
「麗琳!」
彼の声が庭園に響く。私は震える声で答えた。
「ここです!」
杜月笙が東屋に駆けつけ、私を強く抱きしめた。
「怪我はないか?」
「ええ、大丈夫です」
だが、私の身体は恐怖で震えていた。この時代の権力闘争の現実を、身をもって体験したのだった。
その夜、杜月笙は私の部屋を訪れた。彼は普段の冷静さを失い、明らかに動揺していた。
「俺は間違っていたかもしれん」
彼は窓辺に立ち、夜景を見つめながら呟いた。
「お前を巻き込むべきではなかった。お前は政治の世界には向いていない」
「いえ」
私は彼の背中に向かって言った。
「私は自分の意志で、あなたの側にいることを選びました。危険は承知の上です」
彼は振り返り、私を見つめた。
「なぜだ? お前には何の得もない」
私は答えに窮した。なぜ私は彼を助けているのか? 最初は生き残るためだった。だが、今は違う理由があるような気がした。
「あなたは……この混沌とした時代に秩序をもたらそうとしている。私はその手助けをしたいのです」
それは半分嘘で、半分本当だった。確かに杜月笙は単なる暴力団のボスではなく、上海という都市に独特の秩序をもたらそうとしていた。彼のやり方は荒っぽかったが、その根底には都市の繁栄への願いがあった。
杜月笙は私に近づき、その頬に手を添えた。
「お前は不思議な女だ。美しいだけでなく、恐ろしいほど聡明で、そして謎に満ちている」
その時、私は彼の中に男としての感情を見た。権力者としての彼ではなく、一人の男としての杜月笙。
だが、私たちの関係はそれ以上発展することはなかった。翌日、新たな脅威が現れたからだった。
日本の陸軍特務機関。彼らもまた、私の不可解な「予知能力」に目をつけていたのだった。




