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【上海租界転生短編小説】魔都に踊る花魁蝶~転生した女性歴史学者の恋と戦い~  作者: 霧崎薫


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第三章 杜月笙との邂逅

 翌日の午後、私は大胆な賭けに出ることにした。


 青幇のもう一人のボス、杜月笙に会うこと。彼は黄金栄とは対照的に、まだ若く野心に燃える成り上がりのボスだった。現在は黄金栄の配下という立場だったが、私の持つ未来の歴史知識によれば、これから十年後、この上海の真の皇帝となるのは黄金栄ではなく、この杜月笙なのだった。


 1928年の時点で、杜月笙は三十代後半。黄金栄から阿片の販売を任されて頭角を現し始めていた。彼は単なる暴力団のボスではなく、政治的野心と商才を併せ持つ男だった。蒋介石とのパイプも持ち、国民党との関係も深い。


 私の計画は単純だった。未来の情報を武器に、杜月笙の庇護を得る。そして彼の成功に便乗して、自分の地位を向上させる。


 だが、そのためには花影の目を欺いて海上花を抜け出さなければならなかった。


 私は花影に嘘をついた。黄金栄様が私を気に入られ、個人的にお呼びだと。そして彼のアヘン窟「栄記」へと向かうふりをして、杜月笙の拠点である賭博場「同慶里」へと足を運んだ。


 上海の街を リキシャで移動する間、私は改めてこの都市の異様さに圧倒された。フランス租界の整然とした街並みから一歩外に出ると、そこは混沌とした中国の街だった。狭い路地に屋台が軒を連ね、半裸の労働者たちが汗を流して働いている。阿片の甘い香りと、下水の悪臭が入り交じっている。


 同慶里は、外見は普通の商店街だったが、その奥には巨大な地下賭博場が広がっていた。ファンタン、麻雀、そして西洋のポーカーまで、あらゆる賭博が行われている。煙草と阿片の煙が立ち込める中、男たちの興奮した声が響いている。


 杜月笙はそこにいた。


 痩身で長身。仕立ての良い西洋式のダブルブレストのスーツに身を包み、その鋭い瞳はまるで闇夜の狼のように輝いていた。顔立ちは決してハンサムとは言えなかったが、そこには強烈なカリスマ性が宿っていた。権力への野心と、底知れない知性。それが彼の最大の武器だった。


 私の突然の訪問に、杜月笙は驚きながらも興味を示したようだった。海上花の花魁が、何の前触れもなく自分の縄張りに現れたのだから当然だった。


「何の用だね、海上花のお嬢さん」


 彼の声は低く、威厳に満ちていた。周囲の部下たちの視線が私に集まる。一歩間違えれば、命の保証はない場所だった。


「杜様、あなた様とお取引がしたくて参りました」


「取引?」


 彼の眉がわずかに上がった。一介の花魁が、上海の顔役と取引を申し出るなど、常軌を逸した行為だった。


「あなた様に、有益な情報をお教えしたいのです」


 私は彼に未来の情報を与えることにした。もちろん「未来から来た」などとは言わない。「私には予知の能力がある」という体裁で。


「来年秋頃、国際的な銀相場が大暴落し、世界的な金融不安を引き起こします。今のうちにお持ちの銀を全て金に換えておくことをお勧めします」


 それは1929年に起こる世界大恐慌の予兆だった。実際には、まず銀相場の暴落から始まり、それが世界的な経済恐慌へと発展していくのだった。


 杜月笙は私の言葉を即座には信じなかった。当然だった。


「ほう。お前が占い師だとは知らなんだ」


 彼の声には皮肉が込められていた。


「もしお前の占いが当たったら、お前の望みを一つ聞いてやる。だが、外れたら……」


 彼の瞳が危険に光った。


「その美しい身体は俺のものだ」


 私は覚悟を決めて、その賭けに乗った。歴史は変えられない。私の知識は確実だった。


「承知いたします」


 数週間後、予想通り1929年10月のニューヨーク暴落の報が上海に届き、銀相場が連鎖的に崩壊した。杜月笙は私の「予言」に従って莫大な富を手にした。彼は約束通り、私を再び呼び出した。


 今度は彼の私邸だった。フランス租界にある西洋風の洋館で、内装は中国の古典的な調度品と西洋のアンティークが絶妙に調和していた。まさに彼の趣味と地位を反映した空間だった。


「お前は一体何者だ?」


 彼の瞳には畏怖と、そして抑えきれない好奇心が浮かんでいた。


「私はただの花魁にございます」


「嘘をつけ。一介の花魁が、国際金融の動向を予測できるはずがない」


 彼は私の正体を探ろうとしていたが、私は秘密を守り通した。


 その日から、私と杜月笙との奇妙な関係が始まった。彼は私を彼の愛人にはしなかった。彼は私のその恐るべき「予知能力」を利用しようとしたのだ。


 私は彼の相談役として、彼の側に置かれることになった。政財界の動向、ライバル組織の動き、国民党内部の権力闘争。私は歴史知識を総動員して、彼に的確な助言を与え続けた。


「来月、蒋介石は共産党員の大弾圧を行います。その際、多くの左派系知識人が上海から逃亡を図るでしょう。彼らの中には、将来重要な地位に就く者もおります」


「済南事件の後、日本軍は山東省での影響力を拡大します。日本との阿片取引ルートを確保しておくべきです」


「英国は近々、租界の治外法権について見直しを始めます。今のうちに英国系企業とのパイプを強化しておくことをお勧めします」


 杜月笙の勢力は日増しに拡大していった。私の助言はことごとく的中し、彼の信頼は絶対的なものとなった。


 だが、それは同時に危険なゲームでもあった。私の存在を快く思わない黄金栄。そして私の背後を探り始めた何者かの影。


 ある夜、私が乗ったリキシャが暴走した自動車に襲われた。運転していたのは黄金栄の配下のチンピラだった。真夜中の人気のない街角で、黒塗りのパッカードが猛スピードで突っ込んできたのだ。


 私は咄嗟にリキシャから飛び降り、路地裏へと逃げ込んだ。派手なチャイナドレスでは走りにくい。私は裾を引き裂き、ハイヒールを脱ぎ捨て、裸足で上海の汚れた石畳を疾走した。


 背後から銃声が響く。弾丸が私の頬をかすめ、壁に当たって火花を散らした。


 絶体絶命。その時、一台の黒塗りのパッカードが私の前に滑り込んできた。後部座席のドアが開き、中から杜月笙が手を伸ばした。


「乗れ!」


 私は彼の手に引かれ、車の中に転がり込んだ。車は猛スピードでその場を走り去る。


 狭い車内で荒い息をつく私の肩を、杜月笙が強く抱きしめた。


「無事か」


「ええ、なんとか」


 彼の腕の中で、私は彼の心臓の激しい鼓動を聞いた。彼はただ私を利用しているだけではなかった。彼の瞳の奥に、初めて男としての熱い感情が宿っているのを私は見てしまった。


「これからは俺の屋敷に住め。お前の身の安全は俺が保証する」


 その夜、私は杜月笙の庇護の下に身を置くことになった。そして同時に、上海の権力闘争の最前線に立つことになったのだった。


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