第二章 魔都の洗礼
混乱する私をよそに、現実は容赦なく動き始めた。
昼過ぎ、海上花の女将であり、麗琳の育ての親でもある花影が部屋に入ってきた。四十代半ばの彼女は、かつては絶世の美女であっただろう面影を残しながらも、その目には百戦錬磨の女衒だけが持つ冷たい計算高さが宿っていた。緑色の絹のチャイナドレスに身を包み、翡翠のブレスレットと指輪で全身を飾り立てている。
「麗琳、気分はどうだい? 昨夜は少し阿片を吸いすぎたようだね」
阿片? この美しい身体は薬物に蝕まれているのか。麗琳の記憶を探ると、確かに彼女は客をもてなすために時折阿片を嗜んでいた。この時代の高級娼館では、阿片は社交のための必需品だったのだ。
「ええ、母様。もう大丈夫です」
私は麗琳の記憶に従って答えた。花影は実の母親ではないが、幼い頃から麗琳を育ててきた恩人でもあり、同時に彼女を支配する存在でもあった。
「それならよかった。今宵は大事なお客様がお見えになる。フランス租界のお歴々が集まる宴席だよ。黄金栄様もお見えになるかもしれない」
黄金栄。その名前を聞いた瞬間、私の心臓が激しく鼓動した。上海の闇社会を支配する秘密結社「青幇」の三大ボスの一人。フランス租界の華人探偵長でもある彼は、この時代の上海で最も恐れられた男の一人だった。
「決して粗相のないようにね。お前は海上花の看板なのだから」
花影はそう言い残し、部屋を出て行った。その後ろ姿からは、商売女としての冷徹さと、麗琳への微かな愛情の両方が感じられた。
一人になった私は、改めて自分の置かれた状況を整理しようとした。1928年の上海。この年は中国現代史にとって極めて重要な年だった。蒋介石が北伐を完成させ、形式的には中国統一が達成される年。しかし実際には、国民党内部では左派と右派の対立が激化し、共産党は四・一二事件の弾圧後、地下に潜伏して反撃の機会を窺っていた。
そして上海は、その混乱の中心にあった。外国の租界と中国の地域が複雑に入り組み、各国の利害が対立する国際都市。アヘン、武器、情報が飛び交う極東のカサブランカ。
その中で海上花は、単なる娼館ではなかった。政財界の要人たちが密談を行う社交場であり、情報交換の拠点でもあった。花魁たちは美貌と教養で客をもてなすだけでなく、時には貴重な情報源としても機能していた。
つまり、私は今、上海の権力構造の中枢に身を置いているのだ。
夕刻、小紅と他の侍女たちが私の身支度を整えに来た。まず湯浴みをし、白檀の香油で肌を整える。そして化粧。この時代の化粧は芸術的なレベルに達していた。白粉で肌を陶器のように白く仕上げ、紅で唇を血のように赤く染める。眉は細く長く描き、目元には薄く影をつけて妖艶さを演出する。
そして衣装。深紅の絹地に金糸で龍と鳳凰が刺繍されたチャイナドレス(旗袍)。身体のラインが露わになるように仕立てられ、深いスリットが太腿まで入っている。侍女たちが慣れた手つきで私の身体に纏わせていく。
鏡の中の自分は、もはや倉科玲ではなかった。私は沈麗琳。この魔都で最も美しいと謳われる花魁。
だが、心の奥底では、歴史学者としての冷静な観察眼が働いていた。これは貴重な体験だ。1920年代上海の高級娼館の内部を、身をもって知ることができる。研究者として、これほど貴重な機会はない。
宴席は海上花の最上階にある豪華な大広間で開かれた。想像を絶するほど豪華で退廃的な空間だった。壁には清朝の名画が掛けられ、天井には西洋風のシャンデリアが煌めいている。東洋と西洋の美意識が絶妙に融合した、まさに上海租界ならではの装飾だった。
客たちはすでに到着していた。フランス租界の理事官、阿片で財を成した中国人商人、そして各国の外交官たち。燕尾服やタキシードに身を包んだ西洋人と、長袍や馬褂を着た中国人が入り交じっている。
男たちの欲望に満ちた視線が私の身体に突き刺さる。それは物を見るような、値踏みするような視線だった。私は麗琳の記憶を頼りに、優雅に微笑みながら彼らに挨拶した。
宴は中華料理と西洋料理を織り交ぜた豪華なものだった。北京ダック、フカヒレスープ、燕の巣、そしてフランス産のキャビアとシャンパン。私は花魁として、客たちの間を回り、彼らのグラスに酒を注ぎ、琴を奏でて古い漢詩を吟じた。
その時、宴席の上座に座る一人の男の視線に気づいた。鋭く冷たい蛇のような瞳。フランス租界の警察機構を牛耳る華人探偵長、黄金栄。上海の闇社会を支配する秘密結社「青幇」の三大ボスの一人。
歴史の教科書で見た顔だった。彼は私を値踏みするように見つめていた。その視線には、単なる性的な欲望を超えた、何か別の意図が込められているように感じられた。
私は表面的には平静を装いながら、内心では必死に対応策を考えていた。黄金栄は単なる暴力団のボスではない。彼は政治的な嗅覚にも長けた、極めて危険な男だった。
宴も終わりに近づいた頃、花影が私の元にやって来た。
「麗琳、今夜はドゥフォン理事官があなたを指名されたよ」
ドゥフォン理事官。三十代半ばのフランス人で、フランス租界の行政官僚のひとりだった。金髪に青い瞳、整った顔立ちの美男子だったが、その目には傲慢さと冷酷さが宿っていた。
絶体絶命。
私は今夜、彼と一夜を共にしなければならないのか。研究者としての私にとって、これは耐え難い屈辱だった。
だが、その時、私の中に眠っていた倉科玲のしたたかな知性が囁いた。ここで終わるわけにはいかない、と。この身体と状況を最大限に活用する方法を考えろ、と。
私はドゥフォンの前で突然苦しみだし、その場に倒れ込んだ。麗琳の記憶の中にあった阿片の禁断症状を演じたのだ。身体を震わせ、顔を歪めて苦悶の表情を作る。
「申し訳ございません! 麗琳の具合が……」
驚くドゥフォン、騒ぎを聞きつけ駆けつける花影と侍女たち。その夜、私はかろうじて純潔を守ることに成功した。
だが、それはほんの一時しのぎに過ぎないことを私は知っていた。この魔都で生き抜くためには、もっと強力な武器と後ろ盾が必要だ。
私には未来の歴史知識という、この時代では最強の武器があった。問題は、それをどう活用するかだった。
部屋に戻った私は、窓から外の景色を眺めた。フランス租界の街並みには、西洋風の建物と中国の伝統建築が混在している。街路にはリキシャと自動車が共存し、西洋人と中国人が行き交っている。
これが魔都上海。東洋と西洋、伝統と近代、光と闇が複雑に入り交じった、世界でも類を見ない都市。
私はここで生き抜かなければならない。そして、可能であれば、この混沌とした時代に何らかの影響を与えたいと思った。歴史学者として、私には過去を変える機会が与えられたのかもしれない。
その夜、私は麗琳の日記を見つけた。彼女の私的な思いが綴られたその日記には、驚くべき秘密が隠されていた。




