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【上海租界転生短編小説】魔都に踊る花魁蝶~転生した女性歴史学者の恋と戦い~  作者: 霧崎薫


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第一章 転生の目覚め


 意識が暗黒の深淵から浮上してくる。まるで水底に沈んだ石が突然軽やかになり、光の差す水面へと舞い上がるように。ゆっくりと、しかし確実に。


 最初に感じたのは、白檀と阿片の甘美で退廃的な薫香だった。東京の大学研究室に漂う古い紙とインクの乾いた匂いとは正反対の、濃密で官能的な香り。そして耳朶を打つのは、聞き慣れない言語の旋律。柔らかく流れるような中国語の調べが、どこか遠い場所から漂ってくる。


「小姐、お目覚めになられましたか?」


 鉛のように重い瞼をこじ開けると、視界に飛び込んできたのは見たこともない豪華絢爛な天蓋付きのベッドと、心配そうに私の顔を覗き込む若い侍女の姿だった。深い翡翠色の絹に金糸で鳳凰が刺繍された天蓋。象牙色の肌に薄紅色の唇を持つ美しい侍女。


 私は誰? ここはどこ?


 混乱する頭の中で、かろうじて自分の記憶を手繰り寄せる。私の名前は倉科玲。三十歳。東京の私立大学で近代東アジア史を教える准教授。専門は1920年代の中国、特に上海租界の社会史研究。昨夜も大学の研究室で、上海租界における娼館システムに関する論文を執筆していたはずだ。


 そうだ、古い資料の山に埋もれてうたた寝をしてしまい、奇妙な夢を見ているのだ。きっとそうに違いない。研究のしすぎで、ついに自分が研究対象の時代に迷い込む夢を見るまでになってしまったのだろう。


 だが、この肌に感じる滑らかなシルクの感触、鼻腔をくすぐる濃厚な花の香り、全てがあまりにもリアルすぎた。夢にしては五感の情報が鮮明過ぎる。


 恐る恐る手を持ち上げてみる。そして、声にならない悲鳴を心の中で上げた。


 そこにあったのは、私のペンだこのできた研究者の手ではなかった。白魚のように白く長い指。そして指先には血のように赤いマニキュアが施された、見知らぬ女の手。関節は細く、手のひらは柔らかく、明らかに肉体労働とは無縁の手だった。


 慌てて寝台から起き上がると、壁に掛けられた大きな姿見に自分の姿が映った。


 息を呑むほどの美女だった。


 切れ長の妖艶な瞳は深い黒曜石の如く輝き、陶器のように白い肌には一点の染みもない。烏の濡れ羽色と形容されるべき豊かな黒髪が、絹のように滑らかに肩に流れている。身体には牡丹の花と蝶が金糸で刺繍された薄いシルクの寝間着を纏い、その下の豊満な肢体の輪郭が透けて見える。


 これは私ではない。一体誰なのか?


 その時、激流のように記憶が頭の中に流れ込んできた。この身体の持ち主の記憶が。断片的に、しかし鮮明に。


 彼女の名前は沈麗琳。そしてここは1928年の上海。フランス租界四馬路にその名を轟かせる最高級娼館「海上花」。金と権力が蠢く魔都の中でも、最も豪奢で危険な場所。そして私は――いや、沈麗琳は、この館で最も美しいと謳われる花魁だった。


 嘘だ。そんな馬鹿なことがあるはずがない。


 私は自分が専門で研究していた、あの狂乱の魔都・上海の娼婦として転生してしまったというのか? しかも1928年という、中国現代史上最も動乱に満ちた時代に?


 頭の中で麗琳の記憶が蘇る。北京の没落貴族の娘として生まれ、家族を失い、上海に流れ着いて海上花に身を沈めることになった美しい女の人生。男たちに愛され、憎まれ、利用され、それでも誇り高く生きてきた女の記憶。


 だが、その記憶には奇妙な断絶があった。一週間前から記憶が断片的になっている。まるで別の人格がそこに割り込んできたかのように。その断絶の向こうに、麗琳の未練が渦巻いているのを感じた。まるで、私の魂をこの身体に引き込んだのは、彼女の叫びだったかのように。


 その瞬間、私は理解した。沈麗琳は死んだのだ。そして、何らかの理由で私の魂がこの身体に宿ったのだ。転生。それは非科学的で非合理的な現象だったが、今の状況を説明する唯一の仮説だった。


「小姐、お顔の色がよくありませんが……」


 侍女の心配そうな声が聞こえる。私は慌てて平静を装った。


「大丈夫よ、小紅。少し頭が痛いだけ」


 口から出た言葉は流暢な中国語だった。麗琳の記憶と言語能力がそのまま私の中に残っている。これは便利だった。


 小紅と呼ばれた侍女は安堵の表情を浮かべた。


「それでしたら、お薬をお持ちいたします。今日は大切なお客様がお見えになりますから」


 大切なお客様。その言葉が私の背筋を凍らせた。娼館の花魁として、私は男たちに身体を売らなければならないのか。


 小紅が部屋を出ていくと、私は再び鏡の前に立った。この美しい顔、この妖艶な身体。それは確かに魅力的だったが、同時に私を取り巻く危険の象徴でもあった。


 だが、その時、私の頭脳のもう一つの部分が冷徹に囁いた。


 落ち着け、倉科玲。これはある意味、究極のフィールドワークだ。文献史学では決して知ることのできない、歴史の生々しい肌触りを体験する機会なのだ。


 まずは生き延びろ。そして、この状況を最大限に利用しろ。私の持つ未来の歴史知識は、この時代では最強の武器になるはずだ。1928年の上海で何が起こるか、どの勢力が勝利するか、私は全て知っている。


 その知識を使えば、必ず道は開ける。


 私は深呼吸し、沈麗琳としての新しい人生を受け入れることにした。歴史学者から花魁への転身。それは前代未聞の人生転換だったが、私には選択の余地がなかった。


 鏡の中の美女が私に微笑みかけた。その笑顔には、新たな決意が宿っていた。


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