僕の恋は実らない
「私ね、好きな人がいるの!」
晴れ渡る空の下、屋上で幼馴染の春香にそう言われた。その言葉はまさに青天の霹靂。なぜなら僕は彼女のことが好きだったからだ。てっきり告白でもされるのかと思ったが悲しいことに現実はそんな生易しいものではなかった。
乙女が恋する相手は部活の先輩。僕ではない。
――幼馴染の僕ではない。
腹にボディーブローでも喰らったみたいに視界が揺らぐも、なんとか平静を保とうと背筋を直す。も、心の中の疑問が消えたわけではない。
「ええっと、なんで僕にわざわざ言うの?」
「協力してほしいの!先輩を振り向かせるにはどうすればいいのか、とか。みのるくん、昔からそういうアドバイスとか得意だったじゃん」
「えぇ…………」
昔から変わらない春香の無茶ぶりに内心、困ってしまう。おまけに相談内容は意中の相手が別の男と付き合うのを手伝うというもの。困らないわけがない。
が、春香の顔を見た途端、僕の心はすぐに傾いてしまう。
口では平静を保つも、眼元は不安から潤んでいた。まるで生まれたての子犬のようだ。この顔を前にして断れるほどの度胸は僕にはなかった。
「…………わかったよ。協力するよ」
ぶっきらぼうにそう言うと「ほんと!?ありがとう!」と彼女は大喜びだ。そのまま、嬉しそうに屋上から去っていく春香の背中を僕は見送っていた。
自分の好きな人が別の人と結ばれることを手伝う。ずいぶんひどい話だ。だというのに泣き顔一つで手伝うのだから僕も単純だ。我ながら滑稽だ。
彼女が教室に戻っても、僕は屋上で空を眺めていた。好きな子が僕以外の男の人の隣で笑う。そのとき、僕は…………
そのことを考えるとなぜか無性に心臓が痛かった。
――
「あんた、本気で言ってんの?昔から春香のこと好きだったのに他の男に取られそうになってどうすんのよ」
「姉さん…………どこでそれを聞いたのさ?」
家に帰ると、姉さんから鬼気迫る様子で言い寄られた。
腰までかかる黒髪を後ろで結った高身長な女子。それが僕の姉だ。
姉さんはいわゆる姉御肌で面倒見がいい。が、言い方を変えると男勝りな部分もあった。自分の納得できないことに関してはこうしてこちらを責めるように言い寄ることも多い。。
この鋭い目でにらまれるとそこらの人間じゃすぐに腰が引けてしまいそうになるだろう。家族だから僕は慣れているとはいえ、それでも威圧感があるのは否めない。僕より背が高いからなおさらだ。
「そんなこと今はどうでもいいでしょ。それより、あんたよあんた。春香が他の男に取られたっていいのかって聞いてんのよ」
どこで知ったのか知らないが、僕が春香の恋のキューピットになることを聞いたらしい。あいかわらず耳ざとい。地獄耳とはこのことだ。
「べつにいいじゃん。その方が春香が幸せって言うなら、僕は春香の恋を応援するよ」
「あんたはまたそういうこと言う。前から思ったけどあんたには我欲ってものがない、というかなさすぎ。こんな時ぐらいちょっとはやりたいことやってみなさいよ」
「これが僕のやりたいことだよ。大事な幼馴染の恋路をみすみす邪魔しようなんて思いもしないよ」
「だからって、あんたの最後がこんな――」
「悪いけど、そろそろ行かせてもらうよ」
これ以上、姉さんと一緒にいるとガミガミ言われそうだったので、僕はそのまま自室へと向かった。後ろからこちらを引き留める姉さんの声が聞こえたが無視した。
間違ったことはしていない。今更、春香の隣に立ちたい、なんてことは思わない。せいぜい恋のキューピットとしての使命を全うするさ。
自室に入ると、壁際に置かれているスタンドミラーに自分の顔が映った。
ずいぶんとひどい顔だ。顔は青白く、生気を感じさせない。おまけに間抜けな表情。
(これじゃあ、春香につりあうわけないよな)
自嘲気味に笑う。ありえもしない幻想を思う自分がおもしろおかしくてしくて。
胸にそっと手を当てる。心臓が弱弱しく動いている。そして――
――無性に心臓が痛かった。
――
それからというもの、僕のアドバイスが春香の背中を後押ししたのか、面白いほど春香の恋路はうまくいっていた。
「今日ね、先輩といっぱいしゃべったんだ」
――
「今日はね、先輩と一緒にお昼ご飯を食べたんだ~」
――
「今日はね――」
会うたびに愛しの先輩とのエピソードを春香の口から伝えられた。その時の顔はなによりも明るく、なによりもまぶしかった。春香が幸せそうな姿を見られて僕もうれしいというのに――
――心臓の痛みはどんどん強まっていった。
わかっている。春香が僕に笑うのは、僕が彼女にアドバイスして先輩との恋を応援しているから。先輩と結ばれれば、春香の心は先輩だけにしか向かないだろう。その時には、春香の視界に僕が映ることはない。
それでも春香が僕に頼る時間が、少し。まだほんの少しでも長引いてほしいと望んでいる自分もいた。その時間はなによりも得難いほど美しく、輝いていた。
それでも、終わりというものが近づいていることはうすうす感じていた。
そしてついにその時は来た。
「先輩に告白、オーケーしてもらえた~~~!!」
あの時と同じように屋上で彼女は快活に言い放った。あふれるほどの涙を流し、春香は眼元をぬぐう。
彼女はついに愛しの先輩と結ばれたのだ。それは恋のキューピットが、僕の役割が終わったことを意味する。
「…………そっか」
喜んでいるのか悲しんでいるのか、どちらとも取れない声でそっけなく言う。きっと今の僕はひどい顔をしているのだろう。
こんな顔を春香に見せるわけにはいかないと、意地で笑みを浮かべる。
「よかったじゃん!ずっと先輩のこと好きだったんでしょ」
――心臓が痛い。
「お似合いの二人だとは思ってたんだよ。というかさっさと付きあっちゃえよ、ってみんな言ってたし」
――もっと、もっと痛い。
「僕がわざわざ手伝ったんだ。幸せになってよ」
――心臓が、痛かった。
それからのことはよく覚えていない。気がついたときには僕は家の玄関の前にいた。
ただ、最後に春香から言われたことはよく覚えている。
『ありがとう実!実が幼馴染で本当によかったよ!これからもずっっっっと、友達でいてね!』
その笑みは野原に咲く一凛の花のように美しく、そして太陽みたいに輝いていた。
正直なことを言えば、春香が他の人と結ばれるのを手伝うのはけっこうつらかった。もう二度とこんなことはしないと誓える。
けど…………
けれど、こうして最後に春香の笑顔が見れた。それだけで僕の心は救われた。
「恋のキューピットってのも、悪くないかもね」
満足感を覚えながら、玄関の取っ手に手をかけたその時だった――
――心臓が悲鳴を上げた。
「がっ、あっ…………」
膝が折れる。視界が揺れる。
「実っ!?実っ!!」
いつからいたのか、姉さんの声が聞こえる。
ああ、ついにこの時が来てしまったのか。救急車のサイレンの音がどこか遠くのように思えた。
――
余命三か月。僕が医者から言い渡されたことだ。
僕は小さいころからずっと心臓が悪かった。少し運動しただけでもすぐに倒れてしまう。これまでは薬や医者のおかげでなんとかだましだましやってこられた。実際、姉さん以外には心臓が悪いことを気づかれずにこれまではやってこれた。このままずっとなんとかやっていけるんじゃないか。そんな甘い希望は数か月前にバッサリ切り捨てられた。
それからというもの、毎日のように心臓は悲鳴を上げ続け、ついには限界を迎えたというわけだ。
「――――」
眼を開けるとそこは無機質な白塗りの部屋だった。窓はあるものの部屋の中には必要最低限のものしかない。どうやら病院のベットの上にいるようだ。
体を動かすこともかなわず、そんな気力もない。心臓は痛みを通り越して、もはやなにも感じない。痛みという感覚は死に直面した際に薄くなるというのは本当らしい。
なんとか周りを見ようと眼球を動かすと、すぐそばには姉さんが涙を浮かべていた。
「姉さん…………」
僕の姉さん。仕事で忙しい父親の代わりに僕を支えてくれた人。世界で一番優しい人。
そんな姉さんでも僕が死ぬ直前で感じている感情は悲しみ。そして、怒りだった。
「だから、言ったじゃない…………春香に告白すればよかったって」
ポツリとつぶやく。
「なんで、なんであんたは死ぬ直前まで他人のことしか考えられないのよ…………最後ぐらいわがままぐらい言いなさいよ。なのに………なのに他の男に取られて死ぬなんてあんまりじゃない……………」
声を詰まらせながら、姉さんは涙を流した。死ぬことが決まっていながらも、好きだった子に振り向かれることなく人生が終わる。それはたしかに悲惨な最後だという人もいるはずだ。
それでも僕は――
「それは違うよ、姉さん」
「え…………?」
「お医者さんに余命わずかって言われたときから、ずっとなにをするべきか考えてたんだ……そのときに、春香から相談されたんだ。春香の恋に協力してほしいって……最後の最後で春香の恋を応援する。たぶん、そういう運命だったんだ」
「違うっ!だったらなおさら、あんたが我慢する必要なんかなかったじゃない!最後くらい好きな人と結ばれてもいいじゃない…………」
「それはだめだよ……仮に僕と春香が結ばれたとしても、春香にさみしい思いをさせてしまう…………大切な人に先立たれるつらさは姉さんもわかるだろ…………」
「っ…………」
僕たちの母親は優しい人で、そんな母さんを姉さんはとても慕っていた。けれど、体が弱く、僕が高校生になる前に亡くなってしまった。そのことを言うと、さすがの姉さんも言葉を詰まらせていた。
春香の喜ぶ姿を見たかった。けれど、僕にはもう一人大事な人がいて――
「姉さん、笑って」
「え?」
「死ぬときに一番大切な人に笑顔で見送られたい…………それが僕の最後のわがまま……だから、姉さん…………笑って」
柔らかい手が頬を撫でる。眼元は赤く、涙は枯れない。それでも、少年の姉は精いっぱいの力で笑う。そのことがなによりも愛おしくて。少年も自然と笑ってしまう。
そして、ゆっくりと眼を閉じ、動かなくなった。
――
「春香は無事に結婚したよ。私も式に行ったけどけっこうラブラブだったよ、あの二人。私?私は、まあ、まだ結婚はいいかな」
穏やかな春の日差しの中、墓の前に花を手向ける。墓には彼女の弟の名が記されていた。
「じゃあね、また来るよ」
そう言って、ゆっくり立ち上がった。
その時、墓に手向けられた花が風に揺れた。
『ありがとう』
そうどこからか言われた気がし、思わず彼女は頬を緩ませてしまう。雲一つない青空の下で彼女は歩んでいったのだった。