第17話 コーヒー体験
エアが取り出したのは、密封容器だった。
パッキンを使用していて、できるだけ空気が入り込まないようになっており、香りが飛びにくくなっている。
テーブルに置かれた密封容器を開くと、粉に挽いた珈琲豆が現れ、応接室に豆の香りが広がった。
「これが焙煎を済ませた珈琲豆です」
「ああ、良い香りですねえ」
ウィリアムがうっとりとした表情で息を吸い込む。
味については好みの差が大きな珈琲だが、香りについては嫌う人が少ない。
使用済みの粉を乾燥させて、タバコやトイレの臭い消し、洋服タンスでの防虫剤としてなど、幅広い利用方法もあった。
マリエルとエアだけでなく、ウィリアムも香りを気に入ったことから、異世界でも気に入る人は多そうだ。
「マリエル、今日は水筒のお湯で淹れてくれ」
「かしこまりました。ご主人様」
「珈琲はお茶菓子とも合いますから、つまめる物を用意すると良いかもしれません」
「なるほど」
こちらで湯を借りるのはかなり手間になる。
そのため、渡は水筒にお湯を入れて持ってきていた。
沸かしてから時間が経っていないため、湯の温度も十分に熱い。
注ぎ口の問題で完璧とは言えない注ぎ方になるが、ウィリアムが比較対象を知らないので、問題にはならないだろう。
紙フィルターを装着して、珈琲豆を注ぎ、最後に湯を注いでいく。
できるだけ円を描くようにマリエルの腕が慎重に動いていたのだが、水筒で行われているのだけが少し見た目が良くなかった。
湯が注がれることで一層に香りが漂う。
その一つ一つの変化を真剣にウィリアムは観察していた。
「あまりじっと見られると、恥ずかしいですわ」
「い、いやこれは失礼。私はその、コーヒーに興味があったわけで、けっしてその、マリエル様を凝視していたわけでは」
「それは存じておりますけどね。不慣れなもので、不調法がありましたらご容赦ください」
出来上がった珈琲をカップに注ぎ、角砂糖とミルクを添える。
ウィリアムが不審なものを見る目で、出された珈琲を見つめた。
まあ、たしかに何も知らなければ泥水か墨のように見える。
初見で美味しい飲み物だと思える人は少ないかもしれない。
「な、なんですかこの真っ黒な液体は。こ、これがコーヒーというものですか」
「ええ。まあ毒味役として俺が先に一杯飲みましょう。砂糖とミルクを入れて……旨い……」
「……では私も失礼して」
ウィリアムが恐る恐るカップに手を伸ばし、珈琲を口に運んだ。
一気に飲まずに、少しだけ口につける、といった慎重な飲み方だった。
だが、口に含み、味を確かめた後ゆっくりと飲みくだすと、ウィリアムの目が見開かれた。
「こ、これはぁあああああ……!?」
「ど、どうですか?」
「華やかでフルーティな薫りがふわりと口に広がったかと思うと口中に感じる渋みとわずかな酸味、そしてかすかに感じる甘味がすっと後を引いて、砂糖とミルクのまろやかで包み込み、余韻のある確かなボディの強さが――!! そう、まさに新時代の幕開け! ウェルカアアアアアアアアム!!」
「ちょっと何言ってるかわかりませんね……」
突然まくしたてるように味についての講評を続けだしたウィリアムの行動にドン引きし、渡は突っ込まずにはいられなかった。
ウィリアムはうんうんと唸りながら、次の一口をゆっくりと口に含み、十分に味わって、ほうっと息を吐いた。
飲み慣れている渡と違って、ウィリアムはこの珈琲が初体験。
本来苦味というのは後天的に学習する美味さなのだが、ウィリアムはこれまでに色々な美食に触れているのだろう。
初体験でありながら、珈琲の美味しさを感じているようだった。
「なるほど。ワタル様の商品選択眼は見事なものだと言えましょう。これは間違いなく売れるでしょう、私にはハッキリと未来が見えました!」
「そうですか、それは良かったです」
「ただし……」
「なんでしょう?」
「これを喫茶店に売りたいという考えは甘い! 甘すぎます!」
「な、なんですって? 俺の戦略のどこに問題があるっていうんです!」
いきなり否定されて渡は驚いた。
大量に捌けないからこそ、南船町を中心に流通させようと考えていたのだ。
そして商品である珈琲は間違いなく上質で、美味しい。
出せば流行るという自信があった。
だが、ウィリアムは人差し指を立てると、左右にノンノン、とばかりに振る。
なかなかにキザな光景だったが、金髪イケオジがやると様になって見える。
「このコーヒーは、砂糖を使うわけでしょう? でしたら庶民の利用する店に置いてどうするんです!」
「そ、それはたしかに……!!」
「一般に出回っている砂糖ではコーヒーの風味が損なわれてしまいますし、そもそも数も少なく貴重なコーヒーこそ、貴族に砂糖とセットで売り出すほうが効果的でしょう!」
「うう、ば、馬鹿な……。た、たしかに言われてみればその通りだ……」
考えが甘かったかと、渡は頭を抱えた。
ブラックやミルクだけで提供することも不可能ではないが、渡自身がさきほど砂糖と珈琲のどちらにも常習性があると伝えたばかりだった。
ウェルカム商会ばかりに富が集中するのは良くないと、そちらにばかり目が向いてしまっていた。
「それに、ワタル様が色々な商会に卸されるなら、問題も起きますよ」
「問題、ですか?」
「はい。これはまず間違いないことだと思っていますが、これらの商品、関門を通っておりませんよね? ああ、答えていただかなくて結構です。どうやって町の中に入ったのかは気になりますが、聞くと面倒なことになりますから」
「……一応、なぜそんな考えになったか教えてもらえますか?」
冷や汗が出る思いだった。
渡が異邦人であることは間違いなく知られていたが、ウィリアムは渡が思った以上に、こちらの手の内を知っている。
あるいは推察している。
ゲートのこともなんとなく察していてもおかしくなかった。
やり手の商人の底知れなさに触れて、渡は気をできるだけ落ち着かせながら、珈琲を口に含む。
ウィリアムは落ち着いた様子で、理由を話し始めた。
「良いでしょう。このような珍しい物が検問で見つかれば課税が大きな額になるばかりではなく、その地の領主の耳に入らないわけがありません。そして耳の良い商人は、そんな噂を必ず聞き留めるものです」
「なるほど……」
「検問を通らず、つまり税を支払わずに通れば、これは抜け荷ということで厳しい処罰がくだされるかもしれません。まあ、当商会が別の領地を通る際には税の支払いをしているので安心できますが、他の商会ではどうでしょうね?」
「何のことかはわかりませんが、注意するようにしておきましょう」
「少なくともご自身がギルドに所属しておく必要があると思います」
ぐうの音も出ない正論の数々に、渡はギブアップするしかなかった。
こうなれば、別の商会には珈琲以外の商品を持ち込む必要があるかもしれない。
「とはいえ、砂糖と違ってこちらは専売契約は止めておきます」
「ふうむ……。どうやらまだ考えがあるご様子ですね」
「ええ。ただし、先の長い計画なので、こちらは形になりそうなら相談させていただきます」
「分かりました。その日を楽しみにしておきましょう」
渡にはまだ計画の続きがあった。
異世界から珈琲豆を輸入してくるばかりではあまりにも辛い。
砂糖も珈琲も、出荷量が増えるほど渡たちの負担が増えてしまうからだ。
いわゆるボトルネックが生じており、将来的にはこのネックの部分を解消することが不可欠になっていた。
「それで、この珈琲はどれぐらいで売れそうですか?」
「砂糖とセットで売ることを考えれば、あまり高額にし過ぎたくないところですな。一割ではどうでしょうか?」
「ほうほう……。ちょっと安すぎませんか? 俺の仕入れのことも考えていただかないと」
「では二割で……」
「うーん。なるほど。六割でどうです?」
「いやいや、これはとんでもない!! 私が破産してしまいます」
渡とウィリアムは顔を突き合わせて、細かい値段交渉を続ける。
そこには銅貨一枚でも多くせしめようとする二人の商人の姿があった。





