第54話 おはよう、命
データの圧倒的な効果に驚愕する水城を前に、渡は新薬についての説明を始めた。
元々は知られていない部族の秘薬だったそれは、すでに長年の実績があり安全であること。
その秘薬を量産することを考え、いま科学的な根拠を取得して、量産体制を整えていること。
今後、遅かれ早かれ世界的に販売されるのは間違いないということ。
そして、水城の希望次第では、今すぐこの薬を渡しても良いと考えていること。
とくに最後の提案には、水城は即答できなかった。
唾をゴクリ、と飲み干す。
雲雀の数々の絶品料理も、今ばかりは味を失ったようだ。
対価を先に受け取ってしまえば、水城には今後断るという手は取れなくなる。
長年、議員として活動してきて、先に報酬を受け取る怖さは、嫌というほど知っている。
紹介元の祖父江の顔も考えれば、どのような状況でも、約束を反故にするわけには行かない。(元々そのつもりはないが)
今後状況の変化もあるだろうし、どのようなトラブルが起きるか分からない以上、逃げ道を失うことは非常に恐ろしいことだ。
それでも、命を助けられる可能性のあるこの薬は、喉から手が出るほどに欲しい。
今すぐ受け取って、その足で飲ませに行きたいぐらいに。
渡はマリエルに目配せすると、鞄を受け取って、中から物を取り出した。
液体の入った小瓶が、卓の上にそっと置かれる。
「こちらがその薬です」
「……それが……」
「水城先生の場合は、承認に向けてご協力いただければ、それを対価とさせていただきます」
水城の目が、瓶に吸い寄せられた。
小さな瓶だ。
だが、薬は量ではなく、薬効だ。
どれほど小さく見えても、効くものは著しく効くことを、水城は熟知している。
これがあれば、これがあれば、娘を助けられるかもしれない。
実物を前に、目が釘付けになる。
ハッ、ハッ、と浅く呼吸が繰り返される。
得られる報酬と、抱えるリスク。
二つの天秤に揺れる水城の心を見透かしたように、渡はヒョイッと薬の瓶を手に取ると、再び鞄に仕舞ってしまう。
「あっ……!?」
「どうやら、まだその時ではないご様子ですね。次の機会にいたしましょう」
「ちょっと待ってくれ!」
「はい、どうぞ。ごゆっくりとお考えください」
渡が再び、薬を取り出す。
まったくなんという落ち着きだろうか。
向こうは向こうで伝手を求めているはずだと言うのに、実に落ち着いていて余裕がある。
それだけに、水城はどうしてもその薬を手に入れたいという気持ちが、より強くなった。
目の前に突如として転がってきた、娘を治せるチャンス。
それを取り上げられそうになった時、水城の心は決断に迫られて分かった。
たとえこれが毒饅頭だとしても、自分には食べないという選択肢はない。
吹っ切れてしまえば、悩んでいた自分が馬鹿みたいに感じた。
娘の命と、人生と引き換えならば、今後どのような結末に至っても構わないじゃないか。
そう思えば、躊躇していた意味がなくなる。
「喜んで提供を受けるよ。今後、用があるときは連絡してくれ。僕の叶う範囲内では協力する」
「分かりました。よろしくお願いいたします」
頭を下げる青年を見て、この交渉は自分が完敗だな、と水城は思った。
だが、それも別に悪い気はしない。
必要とするものが、何よりも切望していたものが手に入ったのだ。
あとは、実際に効果があれば――――。
再び病院へと訪れた水城は、慢性治療ポーションを手に、ゆっくりと命のベッドに歩み寄った。
一定の呼吸音とエアコンの静かな音だけが部屋に響いている。
本当に効くのだろうか。
ふたたび、娘が目を覚まし、元気になってくれるのだろうか。
ベッドの横に見舞客用の椅子に腰掛けると、投薬のための準備をした。
瓶の蓋を開き、スポイトを使って、眠る命の口に、少しずつ少しずつ流し込む。
「さあ、飲んでくれ。すごい薬なんだよ」
返事が帰ってこないと知りながら、何度呼びかけただろうか。
声をかけながら、じっと姿を見つめる。
祈るように見つめる水城の前で、命はゆっくりと嚥下していく。
良かった、飲んでくれた。
さあ、それでどうなる。
一体いつ効果が出る?
投薬後速やかに効果が出る、と書かれていたが、実際にどれぐらい待つのか分からず、水城はその時を、切望しながら待ち始める。
反応はすぐに現れた。
――光だ。
命の全身から、うっすらと光が発している。
治癒反応だ。
「おっ、おおおっ……おおおおおおおおっ……!?」
ポーションが萎縮した神経に反応し、驚くべき速さで回復させていく。
体そのものが発光するという、初めて見る光景を、水城は魅入られたようにそれを凝視していた。
頼む。
頼むから効いてくれ。
娘を治してくれ、目覚めさせてくれ。
もう一度、この可愛らしい大切な娘に、元気な姿を取り戻してくれ!
少しして、光がすべて収まった。
命の外見にはあまり大きな変化は見られない。
だめか、やはり、ダメなのか……?
それとももっと飲ませないとダメなのか?
食い入るように見つめる水城の顔に、失望が浮かび上がる。
期待しただけに、命が目覚めなかったことへのショックも大きかった。
頭を抱え、じっと床を見つめる。
期待と落胆を繰り返し、また裏切られる。
一体いつまで、いつまで待てば良いのか。
薬ができるのが先か、命が潰えるのが先か。
胸の中に黒いもやが立ち込め始めたその時、ガサッと音がした。
枕と髪の毛の立てるこすれた音に、水城は弾かれるように顔を上げた。
その瞬間、時が止まったように感じた。
長い長い眠りから、ついに目覚めようとしている命の姿。
水城の心臓が激しく跳ねた。
命が、娘が目を開けている……!?
ぼんやりとした命は、状況が掴めていないのか、長年使っていなかったために掠れる声で、たどたどしく話した。
「お父、さん……泣いてるの?」
その声を聞いた瞬間、水城の胸に熱いものが込み上げた。
何年もの間、聞きたくても聞けなかった、大切な娘の声。
それは、まるで奇跡のように、水城の耳に届いた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ」
「ほんとう……?」
「ああ、ああっ! 悲しくて泣いてるんじゃない。嬉しい、嬉しいんだよ。とっても……!」
喜びに、声が震えた。
良かった。
それしか言葉が思い浮かばない。
千語万言を費やしてもなお足りない、感無量の喜びと感謝。
命が目覚めた。
ぼとぼとと涙がこぼれて、ベッドのシーツを濡らす。
長い長い闇の中から、ついに光が差し込んだような、晴れやかな気持ちだ。
水城は、命の手をそっと握りしめた。
あったかい……。
その温もりが、確かに生きている証だった。
もしかしたら、もう二度と聞けなかったかもしれない、大切な娘の呼ぶ声。
視界が涙でにじんで、娘の顔を見たいのに、何も見えないじゃないか。
大量の涙を流しながら、それでも水城は満面の笑顔を受かべている。
心底に喜んでいる。
この瞬間が、何年もの苦しみを、すべて報いてくれた。
「おはよう、命」
ああ、そうだ。
妻に知らせてやらないと。
もし良ければ高評価をよろしくお願いいたします。
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https://unicorn.comic-ryu.jp/145/
ぜひ読んでください。





