第50話 夜闇の守護者(エア視点)
夜。
曇天模様のその日は、月明かりも隠れてしまい、大阪の地に暗がりが包んでいた。
いつものように、食後に非対称性ゲームを楽しんでいたエアは、フッと窓の外に視線を向けると、ゲームの電源を落とした。
ニヘラ、としていた表情が、今は引き締まっている。
ゲームのコントローラーをぽいっと雑に置くと、自分の服装を確認した。
黒一色のウインドブレーカーとロングパンツに着替えると、エアはなんでもない風に、渡へと話しかけた。
「主ー、アタシちょっとランニングしてくる」
「お、分かった。クローシェは?」
「今日はアタシ一人で走りたい気分だから、誘わない」
「そっか。気を付けてな。曲がり角で車に轢かれないように、飛び出すなよ」
「もー、大丈夫だって」
「エアが凄いのは知ってるけど、車の方から突っ込んでくることもあるから」
「はーい、気をつけます」
「うん。がんばって」
「ん、じゃあ行ってきます」
まったく何の違和感や不信を与えず、玄関扉をくぐる。
と途端に、エアの表情は家族向けの柔らかなものから、一瞬にして戦士のそれに変わった。
(今日はイヤな予感がする……)
エアを超一流の戦士に押し上げた、超常的とすらもいえる第六感。
思わず耳を動かし、尻尾が膨らんでしまうような予感に従って、エアはマンションを出ると、路上を駆け始める。
急ぎすぎないように、速度を出しすぎないように。
焦れったい気持ちを上手くそらしながら、エアは大阪の街を走り抜けた。
その速度は優に三〇キロを超えていた。
あまりにも速ければかえって目立ってしまうと、渡からは念を押されている。
だが、可能な限り裏路地を通り、人の気配を探知して、人目を避けて、気配を殺し――。
エアは大阪市内、天王寺から、南に下り、大和川沿いに南東へと走る。
春の夜風はまだ涼しく、力をセーブして走るエアの体を適度に冷ましてくれる。
変化の付与のついたアクセサリーは、虎耳と長い尻尾を隠してくれているが、走る足に合わせてヒョコヒョコと軽快に動いた。
耳が人の音を捉え、尻尾がバランスを保つ。
大阪を走る二本の川、その南側の大和川沿いには、ランニングコース、サイクリングコースなどもあり、夜でも少なからず人がいた。
だが、エアの姿は夜闇に溶け込むように、誰にも気付かれることがない。
そして、工場のある羽曳野市内へと入ると、かるく弾んだ呼吸を整え、すこし速度を緩めた。
全力疾走にはほど遠いが、万が一にも気付かれる恐れは避けたい。
ゆっくりと工場へと向かうと、案の定、これまでに何度か捉えていた怪しい気配を感じる。
(ついに強硬手段にきたってところかな)
工場へとまさに侵入するところだったらしい。
今は製品を製造していないから、明かりを落とした工場は真っ暗だ。
エアの虎眼は闇の中でもよく見える。
男たちは作業服を着ていた。
万が一誰かに見られていても、業者だと偽るつもりだろうか。
暗闇の中、音を一つも立てず、ゆらりと気配を失くし、男たちに近づく。
気配は工場の入口に一つ。後は侵入が成功してから後に続こうとしているのか、離れた所に相当数がいる。
(主は優しい人だから、アタシたちが守らないと)
平和な国で生まれ育ったからだろうか。
エアからすれば、渡はとんでもないお人好しで、騙されたり、危害を加えられないかハラハラするときがよくある。
だが、その甘さは、よく捉えれば人を信じる優しさ、強さでもある。
ほかでもない、自分自身がその優しさに救われたからこそ、エアは渡のその美点を、今後も持ち続けて欲しいと強く願う。
人に傷つけられ、油断も隙もない主になった渡は、頼もしいが、きっと今ほど好ましいものではないはずだ。
そして、主の渡が優しくも甘いならば――
その周りで締め付けるのが、自分の役目だ。
ガチャン、と重たい音を立てて、従業員用の扉が開いた。
男が慎重に中に入るのを見届けると、エアも同じく中に入り、背に立った。
「動くな。動けば殺す。余計なお喋りもするな。仲間に合図を送ったとこちらが判断すれば、やはり殺す。分かったら、ゆっくりとまばたきを二回しろ」
「…………っ!? ~~~~~ッ? ッッ!?」
「ハッタリじゃない。本気で殺す。こっちが本気なのは、分かるな?」
ドライアイスよりも冷たい声だった。
エアの虎のように伸ばした爪が、男の首の皮膚をブツッと軽く貫いた。
血の珠がぷくりと膨らみ、その後首筋に垂れていく。
虎の獣人であるエアの瞳がグワッと拡大し、暗がりの中で金色に光った。
侵入した男は、最初にビクリ、と体を反射的に震わせたため、エアは力ずくで動きを完全に抑え込んだ。
その後、男はフシュー、フシューと激しく呼吸していたが、命令通り言葉を発することなく、身動ぎもやめ、まばたきをゆっくりと二回、答えた。
激しく混乱しながらも、エアの恫喝が本気であることを、しっかりと認識し終えたのだ。
激しい緊張と混乱が、心臓の音として聞こえてくる。
体臭は日本人ではなさそうだ。アジア人だ。
胃が悪いのか、口から漂う呼吸がわずかに臭い。
緊張に汗ばんでいるのが分かる。
目が怯えたように四方にキョトキョトと走り、助かる方法はないかを模索しているようだが、このままただ見逃すつもりはなかった。
「貴様らのような、人様の家に忍び込む害虫は何度も排除してきた。何度も、何度もだ。貴様を殺さないのは、次が来るのが面倒なだけだ。飼い主に侵入は不可能だと報告しろ。この件からは手を引け。二度目の警告はない。はいならまた瞬きを二回しろ」
金虎族という強い傭兵団を懐柔しようと、あるいは排除しようと、これまでに何度侵入者を排除してきただろうか。
エアも、エアの家族も、そのような手の者たちに容赦はしない。
「利き腕はどっちだ。喋っていい」
「み、みぎ……」
「よし。今回、盗み入った罰として、左手を壊す」
「グッ!? ~~~~~~~~~~~~~~ッッ!!」
数トンある鉄板をヒョイッと持ち上げる獣人の怪力が、男の左腕を握りしめた。
グチャ、と。
筋肉や靭帯が断裂し、神経や骨が圧壊する。
男の喉を締め上げ、苦悶の叫びを無理やり押さえつけたエアは、工場の扉を開くと、男を優しく蹴り出した。
「行け。とっとと去れ」
「グエッ!」
体をくの字に曲げて、男が悶絶する。
ひ、ひ、ひ、と悲鳴を上げ、涙とよだれにドロドロになった顔で、ヨタヨタと、しかし一刻を争う勢いで、その場から走って逃げだした。
近くに偽装トラックを用意して停めていたようだ。
慌ててエンジンがかかり、トラックが走り去っていく。
ふん、とエアはその姿を扉の隙間から覗いて確認し、周りに潜んでいたスパイたちが、慌てて退散するのを見届けた。
渡も大事にはしたくないが、スパイたちはもっと公にされたくない。
多額の活動費用を使いながら活動しているのだ。
捕まりました、では国際問題にも発展しかねない。
今回の作戦が露見した以上、すぐさまその場を立ち去るのが賢い身の振り方ではあっただろう。
一人ひとりの気配をしっかりと覚え、次に忍び込む痕跡があれば、追い込みをかけてやる。
剣呑な光を目に宿しながら、エアは工場を後にした。
今日のお仕事は終了だ。
はぁ……。
まったく、あまぁ~い主の下で働くのはラクじゃない……にゃ。
「たっだいまー!」
「おかえり、エア。いい運動になったか?」
「ん、軽い運動になった! 主っ、アタシシャワー浴びたらアイス食べる!」
「せっかく運動してきたのに、食べたら太るぞ?」
「フフン、アタシは太らないし。主のお腹とは違うんだもんねー」
「なっ!? ま、まだ大丈夫だよ」
「声震えてるじゃん、おもしろ。アタシは体質的におっぱいが大きくなるぐらいだしね。主だったらむしろ喜ぶんじゃない?」
「…………」
「マジな目じゃん。ホレホレ~」
「……ごくり」
今もとんでもなく大きな乳房をタプタプと持ち上げて揺らしてみせると、一瞬で渡の視線が吸い寄せられるのを感じる。
少しも不審がられていないことを確認し、エアはほっと胸をなでおろした。
渡には、あまり後ろ暗いところを見せたくなかった。
もしかすると、クローシェやステラはわずかな兆候を捉えて、エアのしたことに気づくかもしれないが、わざわざ告げ口をするようなタイプではない。
「あー、アイスどうしよっかなあ?」
「クッ……! ハーゲンダッツを用意しておきます」
「よわっ❤ ざこっ❤ すぐに誘惑に負けるスケベ❤」
「こ、こいつぅ~!」
わざと敬愛している主を煽るような発言をしながらも、エアの目はとても愛しそうだ。
本当は体を密着させたい気持ちをグッと押さえ込み(手は洗ったが万が一血の匂いを感じさせたくなかった)汗で蒸れたウインドブレイカーのチャックを下ろし、前かがみになって谷間を見せる。
「ね、一緒に食べよ?」
「でも、俺は太りそうだしなあ……」
「いいじゃん。食べたら、その分運動すれば良いんだし?」
「…………」
わざとらしく乳房をもう一度揺らすと、渡は無言で頷いた。
ほ~んっと、かわいっ❤
この人を守りたい。
エアはニンマリと笑った。
もし良ければ高評価をよろしくお願いいたします。
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https://unicorn.comic-ryu.jp/145/
ぜひ読んでください。





