第42話 クローシェとの結婚④
クロイツェルの拳が、顔面へと迫ってくる。
本来の渡の実力なら、そもそも気づくことすら難しい一撃だが、この時は不思議と目で追えてしまっていた。
エアやクローシェたちの訓練をよく見ていたからかもしれない。
だが、それはかえって渡には、自分の死を予期させて、恐ろしかった。
ああ、これはダメだ。死ぬやつだ。
これまで、渡は死ぬことへの恐怖は不思議となかった。
というよりも、現実感が失われて久しい。
異世界を行き来できるようになり、魅力的な女性が常に周りにいて、世界に大きな変化をもたらそうとしている。
以前の自分では考えられないような生活は、まるでよく出来た夢のようで。
だが、自分の死を目前に迎えて、急に怖さが戻ってきた。
脳裏には、過ぎ去った日々の断片が走馬灯のように浮かぶ。
マリエルの笑顔、クローシェとの初めての出会い、エアとの約束…。
まるで心の奥底にしまい込んでいた宝箱が、一気に開いたかのようだ。
――いやだ、死にたくない。もっと生きたい!
もっと長生きして、もっともっとクローシェたちと一緒に楽しく暮らしたい。
他愛ないことを話して、笑って、時に怒って、そしてお互いを励ましあって、一緒に成長していけるといい。
お爺ちゃんお婆ちゃんになるまで長生きして、良いことも悪いことも色々なことがあったねと笑って思い返せるぐらいに、一緒に生きたい。
それに自分の助けを求めて、一縷の望みをかけて接触してきた多くのポーションの購入者はどうなる。
渡の体は、生き残ろうと反射的に動く。
無意識に体を後ろに倒して、回避をしはじめた。
とはいえ、ド素人の渡の動きは、迫る拳に対してあまりにも鈍い。
視界の隅で、クローシェが身を割り込もうと、猛烈な勢いで急加速している。
「主様っ!!」
クローシェの切羽詰まった表情が見えた。
だが、ぎりぎり間にあわない。
ここまでか……!
その時、後ろに控えていたエアが、渡の肩に手を置いたかと思うと、そのまま後ろに引き倒した。
渡は、そのままクロイツェルの拳を避ける。
鼻先にジン、と痛みが走った。
薄皮だけが触れて強烈に擦られたような痛みだった。
火傷したかと思うほどに熱く、痛い。
パシッ! と、音を立ててクロイツェルの拳がクローシェに受け止められる。
渡は視界の隅で、軽く目を見張ったクロイツェルの顔を見た。
おれ……いきてる……?
「ふむ。よく躱したな」
「ありがとうエア。助かった。……ほとんど偶然みたいなものです。それよりも、どうして急にこんなことを? いくらなんでも失礼じゃありませんか」
「そうですわ、お父様! 主様になにかあったらどうするつもりですのっ!」
「元より寸止めするつもりだった。奴隷になったクローシェたちが、身代わりになるように命令されていないか、確認がしたかったのだ。杞憂だったようだがな」
奴隷の扱いは主人によって様々だ。
奴隷を粗末に使い捨てることは許されていないが、主人を助けるために、身代わりになるように命じる主人がいないわけではない。
主人の命を守るため、という名分は、司法の裁きを避けるのに十分なものだ。
ハッハッハッ、と荒い呼吸を繰り返す。
心臓がドクドクとうるさいくらいに鳴り響いていた。
粘るほどにゆっくりと流れていた時間が、再び元の速さを取り戻したようだ。
渡は口元を手で触った。
つうっと鼻血が流れている。本当に掠っただけだったのだが、鼻周りの血管を傷つけていたらしい。
マリエルにハンカチを差し出されて、鼻を押さえる。
幸い鼻血はすぐに止まってくれた。
渡の背中を支えていたエアは、そのままクロイツェルの前に立った。
その顔はとても険しい。
ピリピリとした空気が流れていた。
「それなら先に言葉で聞くべき。アタシたちは別に嘘をつかないし、クロイツェルおじさんなら、嘘が分かるでしょ。それに寸止めするつもりだったとか言ってるけど、止まってないし」
「娘をもらおうとする男の反応が確かめたかったのもある。死を前にした時、人は本性がむき出しになる。大切な娘だ。信頼して預けるに足るか、確認したかったのだ」
「主様は戦闘経験のない一般市民だと言ったではありませんか! 一体何を聞いていらしたの!」
クローシェがものすごい剣幕で、父親に食って掛かった。
それは普段、クロイツェルへの親愛を示していたクローシェとは思えないほどの態度だ。
尻尾を逆立てて、クローシェは本気で渡のために怒っていた。
自分がつい先程命の危機に陥ったからこそ、クローシェのその態度が嬉しい。
「クローシェ……落ち着きなさい。あくまでもお前のためを思ってだな」
「主様、もうお父様に認めてもらう必要はありません! このような態度に出てくるなら、わたくしはもう認めてもらわなくて結構です。お父様、これまで長らくお世話になりました。育てていただいた恩は忘れません。どうかご健勝で」
「ちょ、ちょっと待て、クローシェ!?」
「待ちません! 今回のこと、わたくしは許せません!」
プンプンと湯気が出るかと思うほどに膨れて怒るクローシェの態度に、クロイツェルはまったく予想していなかったのだろう。
これまでのクローシェの言動を知る限り、相当に家族愛が厚い。
そのクローシェの、半ば絶縁宣言にも似た発言に、クロイツェルは目を見開いて驚き、言葉を失ったようだった。
ガタッとわざと椅子が音を立てるほどに荒々しく、クローシェが立ち上がると、渡の手を引いた。
渡としても、クロイツェルの肩を持つことはできない。
正直なところ、試し方がとても不本意で、気分があまりよくなかった。
もう少し理性的で、スマートな対話を通じて試したり、分かり合えるものだと思っていたのだが、その期待は大きく裏切られた。
渡もまた、クローシェの後に続く。
明らかに、クロイツェルは、クローシェの怒りについていけていない。
渡とクローシェの関係を、軽く見積もっていた証拠だ。
「今回、できれば結婚の許可をいただければと思ってご挨拶させていただいたのですが、このような結末になってしまい、非常に残念です。結婚を認めていただけないにしても、もう少し話し合いができると思っていましたので。場をセッティングしてくださったモイー卿にも合わす顔がありません。また時期をおいて、機会を設けさせていただければと思います」
「ま、待て」
「待ちませんわ。主様、ここで耳を傾けるようでは、また舐められてしまいます。行きましょう」
「クローシェっ! クローシェ――!! ば、ばかな……」
クローシェは振り返ることもなく部屋を出た。
渡も後に続き、軽く会釈だけして、クロイツェルの前を去った。
マリエルも、ステラも、ことの成り行きを見守ったまま、余計な発言もせずに部屋を出る。
唯一、クロイツェルと面識があるエアだけが最後に残って、何か二言三言、クロイツェルに言い残しているようだった。
部屋に残ったクロイツェルは、呆然としていた。
呆然としたいのはこっちの方だよ。
Q.寸止めできてなくね?
A.死ななければポーションで治るので、異世界基準ギリギリ寸止め。
クロイツェルは急性ポーションを用意していた。





