第38話 サレム・アル=カリームの信仰
サレム・アル=カリームは辺鄙な田舎で生まれた。
特にこれといった産業もなく、おまけに親はろくでなしと生まれはけっして良くない。
国は非常に裕福だが、それがすべての国民に行き渡っているわけではないのだ。
ど田舎では様々な部族がいて、先進的な生活よりも伝統的な生活を重んじているところも少なくない。
伝統やしがらみによって、サレムも雁字搦めにされようとしていた。
そんなサレムの人生に大きな転機が訪れた。
ファイサル家は自国民の優秀な子どもたちの育成に力を入れていて、サレムの聡明さを見逃さなかったのだ。
六歳の頃、都市に招かれ、衣食住の支援を受けた。
学校に通い始め、十分な教育の機会を与えられたサレムは、その才覚を思う存分伸ばすことができた。
勉強は楽しかった。
乾いた土に水が染み込むように、サレムは知識を吸収していく。
その中には当然のように、イスラム教についての教えも含まれている。
コーランの「読め、世界を創造された汝の主の名において。彼は人間を凝血から創造された。読め、汝の主はあらゆるものよりも尊い方である。彼は筆によって教えられた。そして知らなかったことを人間に教えられた」といった言葉も知った。
預言者ですらも神々から読むこと、学ぶことを命じられたのだ。
いわんや自分のような非才は、もっと学ばなければならないだろう。
高等教育を受ける年になった時には、サレムの賢さは近隣でも良く知られるようになった。
サレムはこのまま国内の有名大学に進学するつもりだったが、ファイサル家はアメリカへの留学費まで出してくれるという。
普通、そういった援助は卒業後に自国に戻って学習の成果を還元することを求められるものだが、そのような要請も一切なかった。
惜しみない援助を受けたサレムは、ファイサル家に大きな恩義を感じるようになる。
いつの日か、援助を与えてくれたファイサル家に恩返しがしたい。
自分が実績を残し、国に還元することが一番の恩返しになるはずだと考えた。
カリフォルニア工科大学を優秀な成績で卒業したサレムは、その後数年をアメリカで過ごして仕事をした。
世界最先端の職場で経験を積んだ方が、国元に帰った時に役に立つと思ったからだ。
薬学研究について深い知識と経験を得、多くの人脈を作り、恋人もできた。
アメリカで多くの実りを得た後、恋人は妻となって、自国に戻った。
自分の能力を自国で活かすべきだと、自分の考えで決めたからだ。
故郷で錦を飾ったサレムは、その後研究者として活動し、多くの論文を発表して認められるようになっていく。
そして、ある日ワタルという男を紹介された。
それが、サレムにとって《《答え》》となった。
◯
サレム博士は、渡を侮らなかった。
というよりも、紹介元であるレイラやファイサル家を信用していた。
大恩ある王族が協力を求めるような人が、平凡な訳が無い、と思った。
サレムの目からすれば、渡の態度は特定の層に見られるような、特殊なカリスマ性を持った人種には見えない。
だがそれは、自分の人を見抜く目が未熟なのであって、隠れた魅力があるはずだ、と思った。
とはいっても、渡から研究する対象を見せられた時には、思わず苦笑いを浮かべるしかなかった。
ガラス瓶に入った薬剤が一本。
ケースの中に厳重に保管された慢性治療ポーションを、テーブルの上に置かれる。
これがいわば試薬だろうか。
淡い色合いの液体は粘り気があり、チャプチャプと瓶の中で揺れている。
サレムはしげしげとその中身を眺めた。
「サレム博士に研究していただきたいのは、こちらの薬です」
「ホウ……薬ができているのですか?」
「ええ。ちょっと込み入った事情で、モノだけが先に完成しているんです。この成分を分析して、量産することが我々の目的です」
「飲み薬なんデスね。どういった薬なのデショう?」
「筋肉、靭帯、軟骨、神経、皮膚、頭髪、爪、内臓といった非常に多岐にわたる傷薬です。受傷直後だけでなく、何年も経過した古傷にも効果があります」
「ハッハッハ、まるで万能薬デスネー。面白いジョークです」
サレムは笑った。
ちょっとばかり場を盛り上げるために、話を盛るにしても、やり過ぎだ。
「いえ、ジョークではありませんよ」
「では本気で?」
「ええ。本気も本気です。実は順序が逆になりますが、すでに薬効のほうは証明されてるんです」
「……マサカ?」
「サレム博士はこれまでにも秘匿性の高い研究をされていて、部外秘の情報もけっして口外されないと聞いています。ご覧ください」
「失礼シマス。フム……これは……」
現代医学の常識をあまりにも超えすぎている。
最先端医学について深く研究しているからこそ、そんな薬があることを信じられなかった。
物事には順序というものがある。
たしかに現代科学は比類なき勢いで進捗しているが、渡の発言は、その階段をいったい何段飛ばししたものだろうか。
しかし、サレム博士は考えるべきだったのだ。
敬愛しているファイサル家が、なぜワタルにたいしてこうも便宜を図るのか。
ワタルから手渡された資料を見て、目を疑う。
患者名は伏せられているが、これまでに使用した者の症状名と、その経過がしっかりとまとめられていた。
レントゲンや血液検査、MRIといった信頼できる検査結果でも、その効果を裏付けられている。
データは確実に、この目の前の液体が素晴らしい――いや、恐るべき効果を発揮していることを表していた。
資料を持つサレムの手が、ブルブルッ、ブルブルッと自然に震えた。
脳内を占めるのは驚きと喜びだ。
呼吸が浅くなり、はあっ、はあっと息を吐く音が響き渡る。
目が血走るような状態になり、手元の資料からワタルへと視線を向けた。
渡を見るサレム博士の目が、柔和なものから、畏れを抱いたものへと変わっていく。
この人は、いや、この《《方》》はもしや――。
「こ、こんなことが、こんなことが本当に起コリ得るのデスか!?」
「凄いでしょう? 俺がはじめて見たときも、本当に驚きました。だからこそ、これを世の中に広めないといけないんです」
「お、おぉおおおおおおおっ!!」
サレムの脳内が歓喜と神々への畏敬の念で満たされた。
これは間違いなく『奇跡』だ。
こんな! こんなことが起こるなんて!
信じられない! 自分の目がおかしくなったかのようだ!
サレムは自身の研究から、このポーションと呼ばれる薬によって引き起こされる変化をほとんど正確に予測した。
この薬が量産できれば、一体どれほどの人々が病から救われるだろうか。
人々の健康に革命が起きる!
数多の挫折と絶望が、希望へと変わっていくだろう!
サレムの目から滂沱の涙が溢れ流れる。
自然とサレムは頭を垂れて、渡を直視しなくなった。
あまりにも畏れ多いと思ったのだ。
膝をつき、頭を床に当てて渡に、その後ろにいるであろう神に祈った。
「神よ、このような使命を私に与えてくださったコトヲ心より感謝しマス! 必ずやこの奇跡を、人の手に! ワタル様、ボクは身命を賭して解析を成功させます!」
「あ、頭を上げてください。俺はそんな大した者じゃないんですって」
「おおおおおおおっ、なんという謙虚なお言葉デスカ!」
そして、サレムは思った。
コーランには、神の奇跡を見ながら、それを嘘だと、偽りだと見誤るものが多くいたという有名な一節がある。
〝われらが印(奇跡)を下すことを控えるのは、昔の民がそれを偽りであるとしたからに外ならない。われらは以前サムードに、明らかな印の雌ラクダを授けたが、彼らはそれを迫害した。われらが印を下すのは、ただ畏れの念を抱かせるために外ならない。〟(『17夜の旅章 59』)
今ここに、神は奇跡を下ろしたのだ!
自分はこの奇跡を本物だと信じる。
ワタル様は神々が現世に遣わされた、預言者、使徒の一人なのだ。
おそらくは下々の者たちが、この時代になってもいまだ神の存在を信じず、正しき行いを続けられないことに業を煮やし、ワタル様に奇跡を授けたのだ、とサレム博士は考えた。
脳内に歓喜、随喜の幸福感に満たされる。
この御方にお仕えすることこそが、その働きを支えること、そのお言葉、なしたことすべてを広めることこそ、我が使命!
自分はこの偉業を助けるべく選ばれたのだ!
神に祈りを! ワタル様とファイサル家に感謝を!
全身全霊をもって、お支えすることを、サレムは誓った。
その後、サレム博士はステラがポーションの製造を行っていると聞いて、もう一度平伏することになるが、それは後のことなので、ここでは割愛する。
カクヨムリワードを利用したイラスト依頼品を、カクヨムの近況ノートで公開しています。
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若奥様感のあるステラです。
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