第36話 売買契約
レイラに籠絡されるわけにはいかない。
だが、結果として渡はメリットも非常に大きい、非常に魅力的な提案だったがため、最終的にレイラの提案を受け容れた。
本当に交渉の上手なことだ。
大陸型の交渉術は、大量の好意や貸しを積み重ねて本当に欲しい条件を飲ませることが多い。
今は渡の方が、人を救うという大きな貸しを与えている。
だが、十分すぎるほどに対価は支払われている上に、マリエルたちの戸籍をはじめ、色々と世話になっている状況だ。
今後、貸し借りがなくなって、むしろ借りが大きくなれば、本命の頼みを引き受けざるを得なかったり、あるいはレイラとの関係をなあなあのうちに決めようとされるかもしれない。
注意が必要だろう。
とはいえ、腕の良い薬学研究者は喉から手が出るほどに欲しかった。
さすがにこちらの欲しているものを良く理解している。
今現在の目標は、ポーションを正規の手段で販売することだ。
薬の開発、認可といった手続きに関しては、ステラの出る幕はない。
大量生産にむけて動き出すのは、開発研究が終わってからの仕事になる。
特に今回は、レイラから二人で話がしたいと提案されて、マリエルたちを遠ざけた状態で話をした。
大丈夫かと心配されていたのが、現実になってしまった形だけに、マリエルたちの心象はよくなかった。
やってしまった、と頭を抱えるも後の祭りだ。
「主は相変わらず色気じかけに弱い……」
「いや、ちが……違わないけど、違うんだ!」
「どっちですの? 支離滅裂なのはやましい所があるからでしてよ」
「いや、本当に、違うんだ。ただ情緒面でも実利面でも条件が合致しただけで、他意はない。信じてくれっ! 別に魅了されてたわけじゃないんだって、ほんと!」
「私たちとの関係は遊びだったんですね。本気にさせておいてから、捨てるなんてひどいです」
「マリエル、それは違う。はっ、はっ、はっ……!」
見下げた、蔑むような目線が怖い。
別に浮気をしたわけでもないのに、彼女たちに悪いことをした気分になった。
特にエアとクローシェ、ステラの三人は、歴戦の戦士ということもあって、圧力がすごい。
知らず知らず呼吸が早くなり、背中にじっとりと汗をかいた。
「ス、ステラ。仕事の順番を入れ替えるようで悪いけど、先に例の物を作ってほしい」
「了解しましたぁ。最優先で取り組みますねぇ。浮気したら睾丸に激痛が走る術式をほどこさないといけませんねぇ……」
「一度潰しちゃっても良いんじゃない? ほら、すぐにポーション飲めば」
「一度痛い目を見るべきですわ……」
「ヒエッ!? じょ、冗談だよな?」
「どうでしょうかぁ? 貴方様次第ですぅ」
マリエルの問題は解決しているから、後はクローシェとエア、ステラの家族の問題さえ解決すれば、渡としても何はばかることなく、彼女たちと結婚するつもりだ。
ステラの物騒な脅しに、タマヒュンを起こし、渡は青ざめた。
勘弁してくれ。
今後もっと脇を固めよう。
◯
二〇二五年一月。
渡は羽曳野製薬工場の売買契約を結ぶ。
買収額は、その後の交渉もあり五八〇〇万円。
工場は閉業ではなく、一時営業停止とした。
これは閉業してしまうと、工場に降りたいくつもの認可を再取得しなければならなくなるためだ。
渡たちは羽曳野製薬工場の一室で、契約を交わすところだった。
契約書にサインをする平田の表情は、憑き物が落ちたかのように穏やかだった。
経営者として、経営を終えなければならない苦しさ、重圧からようやっと解き放たれたのだ。
真剣な表情で契約書の条項を確認し、問題がないことを認めた上で、サインと印鑑を押す。
平田の所有は二〇二五年三月末日まで。
四月からは、エルヴンアトリエの所有物件になる。
「正直、こうして契約がまとまってホッとしました」
「平田さん、その後の雇用についてですが、いかがなさいますか?」
「ぜひよろしくお願いいたします。しかし本当に、工場を稼働させないのに、雇っていただいてよろしいんですか?」
「ええ。俺がずっと管理しているわけにもいかないので、どちらにせよ現場をまとめてもらう人は必要でしたから」
「それでしたら、ぜひよろしくお願いいたします」
契約の締結後、平田と握手をする。
平田には奥さんと二人の子供がいて、上の子は社会人になっているが、下の子はまだ高校生だという。
これで大学に通わせられそうだと、心から感謝してくれていた。
「技術者として目金光と、警備の真守厚も再雇用には承知しています」
「そちらも今日中に雇用契約を結びます。再雇用できる人が少なくなって申し訳ありません」
「あっ、いえっいえっ、どうか頭を下げないでください。このままでは、工場を閉鎖して、誰も得をしませんでした。それを退職給与までご用意いただいて、本当にありがとうございます」
事前の算定額の五〇〇〇万円から値上がりしたのは、現在雇用されている社員やパートのためだった。
今後、渡たちの活動を嗅ぎつけたスパイや、余計な人種に付け入る隙を一つでも与えたくない。
悪く言えば、この工場を知っている人間に、悪感情を持たれて、余計な騒動を起こしてほしくないがための、手切れ金だ。
だが、平田には関係のない社員たちのために、出費を増やしてくれた善意の人として映ったらしい。
深々と頭を下げて、てっぺんハゲを光らせた。
ううっ、眩しい!!
目をギュッと瞑って眩しさに耐える。
視界がチカチカとして、頭がクラクラとするのに耐えながら、渡は目金と真守の二人とも雇用契約を結んだ。
ここからより本格的に、地球でのポーション再現計画が進むかと思うと、ワクワクとした気持ちが押さえきれなかった。
第9話(後編)が新しく公開されました。
https://unicorn.comic-ryu.jp/7606/
みんなぜひ読んでくださいね。





