第44話 ポーションの奇跡 アミール 後
ダーウードの体がベッドへと移動される。
液体状の飲み薬を飲むためだけに、なぜベッドに移る必要があるのか。
そんなアミールの疑問は、渡とステラの会話から断片的に解決した。
「一度に治ると思うか?」
『一本では難しいですねー。わたしなら、まずは瘢痕化した皮膚の治療から始めます。急に動けるようになると、肌が割けちゃうかもしれませんのでえ』
「じゃあ順番的には皮膚、それから神経って形か」
『ポーションは飲んでも良いですが、直接患部に塗ることでも効果があります。まずは少しでも動かせる顔周りや首から行いましょう』
ダーウードは過去の事故で、全身に大火傷を負っている。
懸命な治療で命こそ助かったが、皮膚は爛れ、今も瘢痕が残っていた。
事故後のダーウードが人と会いたがらない大きな理由の一つだ。
皮膚は関節の動きに伴って伸び縮みする能力を持っているが、これは皮膚組織の配列が綺麗に整っているからだ。
瘢痕化した皮膚組織は、配列がバラバラになることで、伸縮性を失ってしまう。
また微細な神経や血管、リンパ管の形成も失われてしまうことで、組織の健全な代謝が行われなくなっていた。
その結果、過剰な暑さや寒さを感じたり、痛みや痒みを覚えたりと、神経的な不調を引き起こしていた。
瘢痕化した皮膚の治療には、皮膚組織を柔らかくする注射をしたり、皮膚移植をする。
他にも一度皮膚を切開し、動きやすい位置に縫い直す、といった治療が主に行われる。
ダーウードにも、可能ならばそういった治療をしてあげたかった。
だが、火傷の範囲があまりにも広く、正常な皮膚組織が少なかったことと、頸髄損傷の影響が大きすぎたために、そういった治療もできなかったのだ。
『急に神経が通るようになって動けるようになると、ダーウード氏の体が耐えられない可能性があるため、まずは火傷の痕の治療から行います。あなた様、こちらを。とは言っても、量が多くないので大丈夫ですかねえ……』
『……大丈夫なんだろうね?』
「良し。直接塗るのは避けて、化粧水のボトルを使おう」
不安にかられたアミールの質問には直接的に答えず、渡が指示を飛ばす。
すぐさま用意が整えられた。
渡たちが祖父江から症状の説明を受けて、危惧していたのが、ポーションの過剰投与だった。
ポーションの薬効は非常に高性能だが、それでも無から有が生まれているわけではない。
一時に多量のポーションを服用することは、体力をかなり消耗させるために避けたほうが良かった。
特に長らく神経系に異常が起きているダーウードは、十分な飲食も難しく栄養面でも問題があったのだ。
色々な可能性を考えて、脱脂綿やガーゼ、ピンセットといったポーションを塗布する方法から、噴霧器など日本から持ち込んでいる。
効果が及んでしまうため、直接術者の手で塗るわけにはいかないからだ。
これらの道具はアミールも当然用意できたはずだが、その要求はされなかった。
相手に渡す情報は少ないほうがよい、ということだろう。
「ダーウードさん、まずは貴方の顔周りから行っていきます」
『顔や首に違和感を覚えても、あまり動かないでくださいねえ』
渡がポーションを噴霧器のボトルに移し替え、ダーウードに向けて噴射した。
『う、うぅ……!?』
『おおおおっ! こ、これは……!? は、肌が、肌が美しく生え変わっている……!?』
『ダーウードさん、急に皮膚が入れ替わったことで、一時的に痒みがあるかもしれませんが、すぐに収まりますからね』
ダーウードの顔周りが急に光に包まれたかと思うと、瞬く間に肌のまばらな瘢痕化した部分が消え去り、本来の美しい、肌理の細やかな正常なものへと置き換わっていた。
腫れ上がった瞼や、引きつった表情が、穏やかな、本来の整ったものへと治っていく。
それどころか頭皮からは早くも毛が短いながらも生えてきていた。
こんな、こんなことが本当にありえるのか……!?
アミールは両手で口元を覆うと、目を見開いてダーウードを凝視していた。
息子が、ダーウードが元に……!!
瞬きすら忘れ、じっと魅入ってしまう。
その間にも、渡たちは淡々とポーションを噴射し、瘢痕組織を治療していく。
『おおお、神よ……!!』
これぞまさに神の奇跡ではないか!!
いま、自分は奇跡を、祝福の時を目の当たりにしている……!
なんという、なんという素晴らしい薬なのだ……!
こんな、こんなことが本当にありえるのか……!?
これが神の恩寵なのか……!?
アッラーが私にワタルを通じて救済と慈悲を賜れたか……!
頼むから夢であってくれるな。
これが現実なのだ……! ダーウードは治るのだ!
アミールの体が興奮と歓喜にブルブルと震えた。
自分の体を掻き抱くが、興奮は少しも収まらず、震えは強くなるばかりだ。
脳裏に圧倒的な幸福が駆け巡り、目を見開いたまま恍惚とした表情を浮かべ、涙ぐんだ。
息子が治ることが嬉しくて、あまりにも嬉しくて、感動が止まらない。
アミールの興奮とは対照的に、渡たちはそれが当然の結果だと、冷静に動いていた。
神経の動いていない人の体は重たい。
そして火傷の範囲は広い。
エアとクローシェが手足や腰をヒョヒョイと持ち上げて移動させていなければ、もっと苦労していただろう。
そのよく考えれば異常な光景も、興奮状態のアミールには当然のことのように思えた。
「これで火傷痕はほとんど塗れたかな?」
『細かい部分は、飲むことで良くなるでしょうから、大まかでも大丈夫でしょー』
「ダーウードさん、ほら、とても綺麗な肌になりましたよ」
渡が鏡を取り出し、ダーウードに見せる。
ぼんやりとした表情を浮かべていたダーウードは、ハッと目を見張り、自分の顔をまじまじと見つめた。
『これが、オレの顔……? 本当に戻ってる?』
「イケメンですね。もう大丈夫ですからね」
『オレの体も、本当に動くようになるんですか!?』
実際に治ったことで、よくなることに希望が持てたのだろう。
ダーウードが必死の形相で尋ねた。
そうだよなダーウード。
これまでどんな治療を受けても、治る見込みがなかったのだ。
私がどれだけ治療を受けさせようとしていても、治る希望を持てていなかったとしても、当然のことだ。
アミールはダーウードの絶望の深さを想像して、胸を刺されるような悲しみに襲われた。
『後は咽ないように、上体を起こしてもらいましょうか』
「さあ、これを飲んで。大丈夫ですか?」
少しずつ垂らされる瓶の中身を、ダーウードは必死に飲み下していった。
少し粘り気のあるポーションの液体は、嚥下能力の低下したダーウードでも咽ることなく飲み干せた。
そして、再び全身へと光が満ちた。
眩い光に包まれて、ダーウードの姿が一瞬見えなくなる。
おお……! おおおおおっ!
救済である!
救済の光が見えるぞ……! 神の慈悲が! 恩寵の光が……!
アミールは固唾を飲んで、ダーウードの動きを見守っていた。
ダーウードはベッドに座ったまま、呆然と自分の体を見つめている。
本当に動けるのか、治ったのか?
実は効果が不十分で、今すぐ倒れてしまわないか。
大きな期待と同じぐらい、強い不安に襲われていた。
ダーウードが表情に驚愕を染めながら、こわごわと手足を動かした。
ピクリ、と指が動いた!
両手の指が開閉を繰り返し、手首が、肘が、肩が。
まるで初めて動かす自分の物ではないかのようだった動きは、すぐに複雑な動きを試し始め、そして喜びが爆発した。
痩せ細った体のどこにそんな力が、と驚くほどの勢いでダーウードは立ち上がると、アミールの元へと駆け寄り、強く抱き合った。
『う、動く! 本当に体が動くよ、父さん!!』
『ダーウード!! 良がっだ、本当に良がっだなあ゛……!』
『うんっ、ありがとう。父さん……』
『良かった……。良かった……。愛しているよ、ダーウード……』
この体で感じるダーウードの確かさ。
あの動けなかったダーウードが、自分を抱きしめている……!
声を震わせて鼻水をすすり、泣きじゃくりながら、アミールが何度も何度も、良かったと繰り返した。
他の言葉を忘れたように、言える言葉が出てこなかった。
至福とはこのような感覚なのだろうか。
次から次に涙が溢れて、感動が溢れて、ただただこれが現実なのだと、息子が治ったのだと、抱き合って確かめた。
本当に、心からお前の回復を嬉しく思う。
こうして抱き上げることを、何よりも幸せに思う。
愛しているよ、ダーウード。
もし良ければ高評価をよろしくお願いいたします。





