第3話 祖父江の熱い交渉
祖父江が商談相手の本拠地に乗り込むことは少なくない。
投資家として相手の開発環境を見ることは、投資に値する開発力が本当にあるのかどうか、確認するのに必要だからだ。
数字やグラフは容易に誤魔化せても、開発機材などはなかなか騙せない。
あの手この手を使って投資家から金を巻き上げようとするスタートアップ企業も多いから、祖父江も何度も痛い目に遭ってきた。
だからこそ、清潔ではあるが、取り立てて特別ということもない店内だったことに、新鮮な驚きがある。
これは堺渡本人の、個人的な趣味の経営かな、と判断した。
たまに独特な感性の持ち主が、採算度外視で経営することがある。
本命の場所は隠しておきたいのかもしれない。
「遠いところから、ようこそいらっしゃいました。堺です」
「祖父江です。今日はよろしくお願いします」
ほう、と少しだけ判断を上方修正する。
祖父江が著名人になって以来、相手がよほどの胆力の持ち主でもない限り、好意的にせよ、敵意的にせよ、何らかの意気込みが感じられることが大半だった。
だが、渡は泰然としていて、少しも構えたところがない。
店内にいる三人の女性たちは、美女をたくさん見てきた祖父江からしてもとても美しく、魅力的だ。
おまけに、渡と同じく緊張した様子はなく、とても自然体でいる。
祖父江に強い興味を覚えていないところも珍しい。
渡について会う前に調べたところによると、以前の経歴はフリーランスライターとして活動していて、今の業態に移ってまだ一年も経っていない。
だというのに新居に移り、喫茶店の経営を始めている。
いったいどういう経験をしているのだろうか。
直接会っても、余計に堺渡という人物が分からない。
不思議なこともあるものだ、と楽しくなった。
「お話に入る前に、まずは当店のコーヒーでもどうですか?」
「うん、ぜひいただきます」
「マリエル、お願い」
「かしこまりました」
いただいた薫りの高い珈琲は、なるほど、とても良い豆を手間暇かけて淹れているのが分かった。
恐ろしく忙しい祖父江は、ゆっくりと珈琲を飲んで、口を湿らせたところで、商談に入った。
「まずは失礼ですが、秘密保持契約書にサインをいただけませんか? それからでないと、具体的な話がしづらいものでして」
「分かった。一応契約内容は検めさせてもらうよ」
「もちろんです。そちらの秘書の方も、同席されるならお願いします」
秘密保持契約書についてはごくごく真っ当な内容しか書かれていない。
秘密を洩らさないこと。第三者に話す場合は許諾を得ること。
漏らしてしまったらすぐに報告すること。損害賠償の請求を受けること。
例外規定が厳しいのだけが気になった。
裁判所などの開示請求といった例外は設けられているが、弁護士をはじめ、他人へ相談することはほとんど不可能になっている。
この内容であれば、一々許諾を得なければ、投資家として法律的な問題がないか弁護士に相談することも難しい。
この契約書のサインを求めるということは、現時点で情報の提供はしても、投資を考えていない、と言っていることに等しい。
すでに他社と契約を結んでいるのか、とも考えられた。
「サインしたよ」
「わたしもサインしました。確認ください」
「ありがとうございます。さて、何から話しましょうかね?」
「どのようにお知りになられたか、まずお伺いしてみてはいかがでしょう?」
「ああ、そうだな。祖父江さんは、どうして俺のことを知られたんですか? 誰かがぽろっと口を滑らせたんじゃないかって、実は気になってたんですよ」
「ふむ、それはない……。最初は私が所有している球団の選手が次々に長年のケガから復帰していることに気付いたところから始まるね」
祖父江は順を追って、説明を始めた。
本来なら長期離脱が必要になったり、復帰は絶望的だと思われていた遠藤亮太や笠松遼太郎といった選手がまさかの回復をして、素晴らしい成績を上げ始めたこと。
これ自体はただただ祝福すべきことだが、同時に球団の会長として、選手の健康状態を知ることは大切だ。
病院から診断に用いた各種検査結果を見て、驚いた。
「私の知る知識では考えられないような変化が起きていた。当然、直接会って話を聞こうと思ったら、驚いたことに全員が秘密保持契約を結んでいて、具体的には話せないという。それで、ひとまず君に直接会って話を聞こうと思ったんだよ」
「なるほど。とてもよく分かりました」
祖父江の話に渡は納得してみせた。
その時、ちらりと渡の目線がエアとクローシェに向かい、二人が軽く頷いたのだが、その意味が分かるのは当人たちだけだろう。
「おそらくは何かの薬だと思うんだが、それは今手元にあるのかな?」
「ありますよ。エア」
「はーい」
「誤解のないように先にお伝えしておきたいんですが、これは薬じゃありません」
「ほう……どういうことだろうか?」
「ただの健康ジュースです。俺としては何らかの薬効を約束するものではなく、あくまでも元気になれば良いな、とそれぐらいの期待で販売しています」
「一本五百万円で?」
「ですね」
シレっとした態度だが、何を目的としているのかはすぐにピンときた。
医薬品としての承認を受けていないから、薬品として効能を謳うわけにはいかないのだ。
祖父江の前に、瓶が置かれた。
小さな瓶にチャプチャプと液体が入っているのが分かる。
分かりやすく揺らしてみせてくれたが、少し粘り気のあるものだ。
「遠藤君は膝の半月板や靭帯損傷が良くなったようだね」
「まあそういうこともあります」
「笠松君は肘の軟骨と靭帯が回復した」
「素敵なことですね」
「こうして考えると、軟部組織に何らかの効果が見込めそうだが、例えば、脊髄損傷などはどうなんだろうね? 神経組織はまた別かもしれないが」
「俺には分かりませんが――」
「たまたま回復された方もいるかもしれません」
「ふうむ、そういうこともあるのか」
言葉を濁した渡の隣で、マリエルが代わりに答えた。
しかし、一本で五百万円か。
効果効能を考えれば安すぎるぐらいだ。
重篤な疾患ほど、直接的な治療費の他に、様々なコストがかかる。
その上、本来ならば得られたチャンスや報酬も、大きく減ってしまう。
たとえば、野球選手がケガを理由に契約を更新できなければ、数億円の損をするように。
どう考えても個人が販売するのではなく、大企業が世界に向けて販売するのに相応しい規模の効果に思える。
「私は長らく腰痛や首の痛みに悩まされていてね、良かったら一本いただきたいね」
「大丈夫ですよ。お支払いいただいたら、瓶は持ち帰らずにこの場で飲んでください」
「徹底しているね。分かったよ」
成分分析を警戒しているのだろうと分かって楽しくなった。
つまりそれだけ効果効能を信用しているということであり、再現可能な物だという証だった。
祖父江は支払いを済ませると、すぐに瓶を煽った。
はたしてどんな効果があるのか。
グビっと飲み干したポーションが祖父江の体内に入った後、全身に淡く光が起きた。
特に腰や首、膝といった関節に光は集まる。
だが、一番の変化は頭自体にあった。
前頭部や頭頂部に感じた熱さ、何とも言えないぞわぞわっとした違和感に、祖父江は頭に手をやった。
そして、心底驚いた。
「こ、これは!? あ、ある……! 髪がある……!!」
違和感に思わず頭に手をやり、返ってきた感触に心底驚嘆した。
「は、生えている!? 怪我が治るだけではなく、ハゲまで治るのかっ!!」
祖父江の興奮した叫び声が店内に響き渡った。
フサフサのむしろ剛毛の髪の感触。
若かりし頃には当然のようにあった、懐かしい手触りに、祖父江はとび上がって今すぐにでも踊りだしたいほど嬉しかった。
秘書の綿部があんぐりと口を開けている。
祖父江はソファから身を乗り出して、口角泡を飛ばしながら、熱心に語りかけた。
「この健康ジュースだが、大々的に販売する予定はないのかな!? もし薬として販売するなら、ぜひ私も協力させてほしいところだ! 君も知っているかもしれないが、私には非常に大きな販売力があるし、新薬の認可などに関係する手続きにも詳しい!」
「将来的にはともかく、理由があって今は考えていません」
「……理由とは? 私のコネクションで解決できるかもしれない」
「とても魅力的な提案ですし、ぜひお世話になりたいと思います」
「では――!!」
「――ただ、理由は言えませんが、今すぐは難しいです」
「どうしても話せないのかね?」
「そうですね。現物があるので信じがたいかもしれませんが、まだまともに製造が確立していないものだと思ってください。認可を受けるどうこう以前の問題なんです」
「ふうむ、そんなことが。……では資金提供はどうだろうか? ファンドを通すのが面倒なら、私の所有している銀行から融資を受けられるようにしても構わない」
何らかの繋がりを残して、次の具体的な契約になんとか繋げたい。
祖父江の言葉には熱と危機感が籠っていた。
この効果を知れば、自分と同じ規模の経営者ならばいくらでも支援を約束するだろう。
資産家として社会をより良く変革したい、という情熱と同じぐらい、ビッグチャンスを掻っ攫われたくない、という思いがにじみ出る。
だが、祖父江の熱意と反して、渡の態度は平静だった。
いっそ冷たいといっても良いぐらいだ。
一体なぜここまで冷静なのか、これがどれだけ大きなことか理解しているのか。
ポーションの効果を否応なく体験した今だからこそ、祖父江は渡の態度が理解できない。
これだけの案件を抱えていれば、必死になって販売してもおかしくないのではないか。
なぜ悠々としていられるんだ。
「ありがたいことですが、現状は融資を受けるつもりはありません。数年以内に生産の目途が立てば、ご連絡します」
「そうかね……」
立ち上がりかけた体が力を失い、再びドサっとソファに沈み込んだ。
非常に魅力的な商品だったが、それに見合った対価を用意できないらしい。
「ああ、でも祖父江さん。もし良かったら、後日不動産について、相談させてもらっても良いですか? この事業を進めるにあたって、お力を借りるかもしれません」
「もちろんだとも!」
細いながらも関係性の糸は繋がった。
色々と便宜を図ったりして、この糸を綱に育てていく。
そのためには、余計な邪魔が入らない様にしておきたい。
祖父江は渡との良好な関係を最重要課題に置きながら、店を後にした。
〇
数日後、テレビのニュースで放送された、祖父江が頭髪について行った発言が、SNSを中心に話題になった。
「カツラ? 違う違う。失礼な話だね。ちゃんと自毛だよ」
「私の前進にようやく頭髪が追いついたのだ。それだけだよ」
祖父江は上機嫌に育毛治療の関係を否定したが、その後の数日、育毛関係の株価がいくつか急上昇したという。
なお、この作品は現実の人物・企業・団体とは(いつもの定型文)
一応補足しておくと、渡がエアとクローシェに目くばせしたのは、体臭や心拍数から嘘をチェックしていたためです。
もし良ければ高評価や感想をよろしくお願いいたします。
作者が(本当に)すごく喜びます!





